玖 青天の霹靂

たどり着く場所

 結局、なんの答えも出なかった。死にたい、けれど桃の死を望まない人もいて。それを思うと、ひと思いに自害するということも出来なくて。

 常盤ときわとの約束通り、三晩考えた。けれど、答えは出ないままだ。

 ゆっくりとすする朝食の汁が、やけに温かい。

 実のところ、朝食を取って行くつもりなどなかった。夜が明け、そのまま宿を出ようとしたのだ。

 しかし、まだ朝早いしなにか食べて行きなさいと、宿の女将さんに階下の食堂で呼び止められたのだ。

 そこに至って、やっと宿代がいるのではと気が付いた。陵駕りょうがと逃げた時、最初の夜は宿に泊まった。そこで陵駕がお金を払うところを見ている。

 それを告げると、女将さんは笑った。宮の方から十分すぎるほどいただいています、と。彼女は、桃のことを桜の宮を訪れた客人だと思っているようだった。

 預かっているものもありますから、ご用意します。朝食を食べながら待っていて下さい。そう言われて、一階の土間から一段上がった場所に敷かれた畳の上に上げられた。

 そこで桃は、朝食を食べることとなったのだ。

「おかわりはいかがかい?」

 近くを通りかかった女将さんが、にこにこと問いかけてくる。その屈託の無い笑顔は、桜の宮ではあまり見かけなかったものだ。

 そんな顔をしていたのは、桃の知る限りでははるかか、陵駕くらいのものだった。

 陵駕。桜の宮を出たときは、確かに一緒だったのに。

「いいえ、いりません」

 食欲なんてものは、もうない。食事の味を美味しいとは感じるが、それは食べ物を口に運び、飲み込むという作業のようだった。

 こんなことをしなくても、長いこと生きている気はしない。

「そう? なにがあったか知りませんけど、そんなに暗い顔ばっかりしてちゃ駄目ですよ。人間なにごとも明るくしてればなんとかなりますって」

 女将さんはそう言って、あははと笑うと奥の方へ歩き去ってしまう。

「————……」

 町で暮らす人たちは本当に明るいと思う。宮の中はいつでも静かだった。静かで退屈で、桃はいつも暇を持て余していた。

 それなのに、町はどうだろう。そこかしこに人の声があふれていて、一日中人が動き回っていて。子供達でさえ遊ぶのに夢中で、暇人など誰一人いない。

 貴族とは、なんとつまらない人生を送っているのだろうかと思わずにはいられない。

 もちろん、貴族が政治を司り、また神子を産み魔を払うことで臣民を守っているのは確かだ。陵駕とともに出奔した日も、彼は治水事業の視察に行っていた。それは臣民を守る貴族の務めだ。

 しかし、宮の中では身分を重んじ、政略ばかりを巡らせている。そして、身分と貴族としての役目とでがんじがらめだ。

「陵駕……」

 桃は身分抜きの世界へ出て来た。けれど、陵駕は。身分の中で処刑されてしまった彼は。

 陵駕こそ、身分抜きの世で生きることを望んでいたのに。

 行こう。歩こう。

 すぐ近くに桜の宮を望むこの都からなど、離れてしまおう。そして、歩きながら答えを見つけるのだ。

 そう、きっとなるようにしかならない。世が桃を殺すならばそれに従い、生かすならばそれに従おう。

 そっと席を立つ。桜の宮で出されるものと比べればたいして上等なものではなかったが、それでも美味しい朝食だった。

 この先、食べ物を口にすることがあるのかもわからない。そう思えば、ひと口またひと口と食事を口に運ぶ作業も、少しだけ感慨深い気がした。この世に別れを告げる、その別れの味のようだ。

 畳を降りてそっと草履を履く。鼻緒で擦れた皮は、まだ治りきらない。それでも、この足で痛みと共に歩いていたかった。行けるところまで。

「おや、もう行くのかい?」

 奥から女将さんが、前掛けで手を拭いながらやって来る。

「お嬢さん一人で?」

「ええ」

 連れなどいない。失ってしまったのだ、永遠に。

「お嬢さんみたいな高貴な人が、一人で歩いてちゃ賊の餌食だよ。町には不慣れなんだろ?」

 それには正直に頷く。町に不慣れなのは、隠そうにも隠せない。宿代のことすら気がつかなかったのだから。

 着付けだってどうにも不格好になるし、そもそもその小袖袴自体が上質なものだ。やはり町人の綿の着物と並ぶと、その質の良さが際立つ。

「だったら用心棒とかさ、連れて行くべきだよ。あたしに心当たりがあるからさ、そいつに頼めばいいよ」

「いいえ」

 桃を心配してくれているのはわかる。だけど、そんなものはいらない。なるようになればいい。賊に殺められるなら、それでも良かった。

「いりません。わたし、早くこの町から出なければ」

「どうしてだい?」

「お金もありませんし」

 桜の宮から、桃は着の身着のままで、なにも身に付けずに出て来たのだ。

 そもそも、お金を持っていたとしても、使い方がわからない。陵駕が支払いをするところは見ていた。しかし、言われた値に対して、何種類かある紙幣や硬貨の中からどれを渡せばいいのかわからない。今までお金というものを使ったこともない。

「お金なら、宮からお嬢さんのために預かっているから、当分大丈夫さ。心配なさらずにさ」

「いりません。差し上げます」

 持っていても意味などなかった。桃はお金の使い方すら知らない。それに、お金がなくて飢えるくらいなんだというのだろう。それで死ぬのならば、それでもいい。

(陵駕……)

 彼がいてくれたなら、お金は世に出たばかりの二人を当面助けてくれるだろう。しかし、一人になった桃にそれは必要のないものだ。

「だめだよ! あれはお嬢さんのお金なんですから、あれで用心棒を」

「いりません」

 もう放っておいて欲しかった。桃にはもう望みなど無く、生きる意味すらないのだから。

「無茶言わないでくださ——あっ!」

 ほとほと困った顔をしていた女将さんが、なにかに気づいたように視線を巡らせた。その顔には笑みが広がり、顔は嬉しそうに紅潮する。

 その視線は桃の背後、出入口の方へと向けられていた。

「ああ、来てくれた! 用心棒だよ!」

 桃に必要だと思って、勝手に呼び寄せていたのだろうか。

 生きてなどいたくもないのに!

「用心棒など、わたしはいりません‼︎」

 女将さんを睨みつけるように声を叩きつける。しかし。

「酷いなぁ。すっごく急いで来たんですけどねぇ……」

「————‼︎」

 その声を聞き間違えるはずなどない。

 勢い良く出入口の方をふり返る。そこには、戸口にもたれかかっている男の姿。

 逆光で顔がよく見えない。けれどその声と、体躯と……散切ざんぎり頭と。

「陵駕————」

「桃姫にいらないって言われたら、私には行くところがないなぁ」

 微かに笑いを含んだ声。

 胸が詰まる。これは夢なのだろうか。ああ、夢でもいい、醒めないでいてくれたなら。

「陵駕、陵駕なの……? 生きているの?」

「えぇ。この通りぴんぴんしてますけど?」

 一歩、陵駕に近づく。二歩。逆光で見えなかった彼の顔が見えた。

 そこで可笑しそうにほほ笑んでいるのは、間違いなく陵駕だ。

「本当に?」

「本当ですって。よく見て下さい」

 戸口から身を離し、両手を広げる陵駕の姿。手の甲には鞭で打たれたような傷が残っている。

 けれど、生きている!

「陵駕っ」

 三歩目と同時に、ほとんど飛びつくようにしてその背に両腕を回した。しっかりと抱きとめてくれた手が、桃の頬を撫でた。あたたかい。

 生きている……!

 胸の奥から熱が広がる。こみ上げるその波に押されて、涙が頬を伝った。

「本当にすみません。私が不甲斐ないばかりに、辛い目に合わせました」

 陵駕の腕が、桃を強く抱きしめた。その強さに、また涙が伝う。

 もう辛かったことなどどうでも良かった。それは過去のことで、今ここに陵駕はいるのだから。自分の側に。

 そっと腕の力をゆるめた陵駕を、それでも離すことが出来ない。そんな桃の頭を、大きな手が優しく撫でた。

「もっと早くここへ来るべきでした。でも、常盤姫が足の手当てをして行けとうるさくて」

「母上が……?」

「ええ」

 では、常盤があの時、桃に宿で三晩待てと言ったのは、陵駕の治療をするためだったのだ。

 母の最後の言葉を思い出す。あれは、こうなることを知っていたからこそ、出た言葉だったのだろうか。

「逃がして下さったんですよ、柑子こうし殿が」

「え……?」

 思いがけない言葉に、身を離して陵駕を見上げる。柑子が、家主であるあの人が逃がしてくれた?

 では、陵駕を処刑すると言った、あれは嘘だったということだろうか。

「その代わりに、手厳しい罰をお与えになられた。けど、それももう終わりました」

 罰。そう言えば、常盤が言ってはいなかっただろうか。愛する者の死を見ることが桃の罪であり罰なのだと。

 だとすれば、陵駕もどこかであの処刑を見ていたのだろうか。あの美しい衣を着せられた女を桃だと思って————。

 そうだとしても、今、こうして生きて会うことが出来た。罰は、終わったのだ。

「あれは、身代わり処刑だったんです」

 そう言った陵駕の顔に、苦痛の色が一瞬浮かんだ。それに桃も目を伏せる。あの光景を陵駕も思い出したのだろう。

 身代わり処刑だったと、手放しで喜べるはずもない。二人のかわりに、誰かが間違いなくあの場で処刑されたのだから。

「あの女性の方は、桃姫に似せるために髪を切られていました。気がつきましたか?」

「いいえ」

 あの男性の方を陵駕だと思っていた。それしか見えていなかった。

「誰が……あ……」

 女の方に、思い当たる人物が一人いる。

「まさか、蘭……?」

「いえ。蘭は正気を失っていましたから、柑子殿が里へ帰したそうです」

「そう……」

 ほっとする。蘭がどうして柑子を刺してしまったのか、それはわからないままだった。家主である柑子の命を狙ったなど、許されることではない。

 それでも、気が狂うほどの酷い拷問を受け、その上処刑されるなど桃には到底受け入れることのできないことだ。

 やりきれない思いが残るが、せめて里に帰れたのなら良かった。

「あの二人は、別件で捕らえられた罪人だそうですから、あなたが気に病む必要はないですよ」

「ええ」

 ここは素直に感謝しよう。こんな大芝居を打ってまで宮の外に二人を逃がしてくれた柑子と常盤に。

 あの公開処刑で、鈴鳴すずなり家の桃と陵駕は死んだ。これで、二人とも貴族という身分に縛られることなく、自由に生きて行ける。

 桃も、陵駕だって根っからの貴族育ちだ。突然外の世界に放り出され、これから辛いことも山のようにあるに違いない。

 それでも、二人なら大丈夫。乗り越えて行ける。

「ありがとう……」


   ◆ ◇ ◆


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