第78話支配からの解放(朱明視点)

 ぐらりと眩暈がしてふらつきそうになり、咄嗟に椅子の背を掴んだ。




「う…………」




 魔力を操り術により押さえ込まれていた記憶を引っ張り出すのは楽ではなかった。女王光紫が契約術解除に組み込んだ仕掛けを外すのは容易ではなかった。時間を掛けて苦労して解いた途端に、それは奔流のような勢いで俺を満たした。


 甦った記憶に伴い、その時感じた想いが次々と浮かぶ。




 決して穏やかではない、まして優しくなど到底思えない強く激しい感情。それに名をつけることなどできないだろう。




「……………葵」




 俺を騙すようにして逃げた彼女を許せるわけがない。殺意が湧くほど怒りが込み上げてもおかしくない。だが葵の告白を聞き、最後の悲しい表情を思い出せば、怒りよりも苦しさが勝った。




 契約術を解くことで記憶が消されると知らされていれば、俺は彼女の従魔のままでいることを選んだというのに。葵は俺の気持ちなど期待もしない。一方的に愛を告げて、俺の言葉を聞くことすら自らに許さずに去った。




「葵!」




 酷く苦しい。契約術で結ばれて、そこから解き放たれても支配が消えない。


 俺の心は既に帰らない。最初から葵に持っていかれたままなのだ。


 こんなことで俺が自由になると思ったのか?全てを奪っておいて今更返そうだなんて、やはりおまえは傲慢な女だ。




 ふらりと部屋を出た先には、翆珀が立っていた。




「……………朱明」




 俺の顔を見て分かったのか、少しだけ眉を潜めて「行くのか?」と聞いてきた。




「止める気か?」


「いや…………」




 押し通るつもりだったが、翆珀は両手を軽く挙げて横に避けた。




「早く行けよ。姫さんをかっ拐って来い」




 奴の言葉に引っ掛かりを覚えたが、それは目に入れて分かった。




 不器用な生き方しかできないのか。


 ひんやりとした雪の舞う中、婚礼衣裳を纏った葵を見た。




 好きでもない男と結婚して、望んでもいない生き方をして、自分を人の世に縛り付けて満足か?




「よくも…………よくも俺をハメたな」




 そうじゃない、俺が許せないのは、支配された生き方から抜け出そうとしない葵にだ。




「俺はおまえを一生許さない。生涯を掛けて俺に償え!」




 おまえを解放する。あの告白が真実なら、その生涯を掛けて自らの心のままに生きるがいい。




 勢いに呑まれたように目を見開いていた葵が小さく口を開いた。




「しゅ、めい」




 たった一言名を呼ばれただけで、こんなにも揺さぶられる。


 俺は葵に逢いたくて、彼女の声が聴きたかったのだ。記憶を失っていた時から、ずっと求めていたのだ。




「……………おまえのせいで、何度も何度も悪夢を視た。身体が動かなくて、言いたいことがあるのに言葉が口をつかない。何か大事なことを忘れているのがわかるのに、何も思い出せなくて焦るばかりの夢。夢を視ていたのは、おまえではなく俺のほうだ」




 記憶が戻ったことが分かったのだろう。葵は悔しそうな顔をした。




「私は……………君の中から私を取り除きたかっただけだ。誰に従属することもなく自由で高潔な本来の君でいて欲しいと」


「愚かだな、葵」




 本当に、どうしようもなく強くて弱い女。




「俺が過去の俺に戻ることは、どうやったってない。なぜなら俺が拒んでいるからだ。そんな俺にしたのは、おまえのせいだ。おまえが俺を変えた。おまえにはその責任を果たす義務がある。そして俺にしでかしたことへの償いも」




「分からないよ」


「俺は確かに要求したはずだ」


「それは…………」




 朱の走る頬を見つめる。そんな正直な顔をしておいて、おまえこそ俺が欲しいくせに。




「あれほど俺のことを自分のものだと言い張っておきながら、今更何を言っている?俺を閉じ込めて縛り付けてしまいたい醜い欲望とやらをさらけ出してしまえばいい」




 俯くのは恥じているからなのか?醜いと決めつけて隠して、それを俺が心底望んでいるなんて考えないのか?




「おまえは俺がそれを拒むと思っているのか?その欲望を、おまえだけが抱えていると思うのか?」


「え?」




「なぜ自分に正直にならない。それが醜いだと?だったら俺も同じだ」




 言葉を尽くす。


 あの時一言だって許されなかった言葉を、ぶつけることもできなかった想いを、葵に捧げる。




「俺を」




 変えられてしまった俺に償いを。


 葵の体も心も、その存在も、ただその全てを欲しておかしくなった俺に、おまえは応えなければならないだろう?




「俺を愛していると言った癖に、その為に俺を諦めるなら、そんなお綺麗な想いなどいらない。おまえの言う醜さの方が欲しい」


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