第56話戸惑い(朱明視点)

 俺は何を考えた?


 額を伝う水滴を拭う気も起きず彼女から背を向けて、しばし茫然とする。


 気の迷いに過ぎないのだと自らに言い聞かせる。それとも特殊な能力を持つ葵のせいか?




「……………………これはおまえの能力の一つか?」


「何言ってるのかな」


「俺を………………はっ!」




 振り返って視界に映したのは、濡れそぼって服を肌に貼り付かせた葵だった。前髪を掻き上げた拍子に、首筋を流れた滴が襟の合わせから胸の間へと消えていく。


 ゴクリ、と生唾を呑み込んだ。




「ところで朱明、君は…………」


「く、来るな」




 手を付いてにじり寄ろうとするのを、同じ距離分後退する。




「……………まあいい、逃げるな」




 命令に抗えず目を覆った。この娘は危険だ。




「…………………おまえは一体何なんだ」




 息を吐き出すのが苦しいような錯覚。




「早く術を解け、そうでないと」




 葵が憎い。このままだと取り返しがつかなくなるような焦燥にかられる。




 こちらを不思議そうに見ている少年のような娘に、たかだか人間の生意気な小娘に、俺は全てを奪われるかもしれない。


 契約術で葵の傍にいて、どうしても視界にその姿を映し続けなければならないことが責め苦に思えた。




「おかしく、なりそうだ」




 葵は、問い返すようなことはしなかった。どうせ分かっていないだろうに、釘を刺すような言葉を投げ掛ける。




「いつか僕を殺してよね、できるものなら」




 ここまできたら無邪気を装った悪意だろう。




「俺は本当に葵が憎い」




 ************************




 午後はソファで仮眠して、夕方になれば下位の魔の排除に出向く。毎日変わり映えのしない、単調で差し迫った終末への日常。




「朱明様」




 高い女の声がして、白麗が後ろから早足で近付いてきた。




「これから向かわれるのですよね?」


「そうだ」


「今夜は私もです。よかったらご一緒させて下さい」


「好きにすればいい」




 もう60年ほどになるのか。兄である翆珀に抱えられていた幼子が大きくなったものだ。下位の魔に侵食された地から逃げてきて結界を必死に叩いていた兄妹を保護したのは、単に二人が強い魔力を有していたからだ。


 魔の世の存続の為に力になるから受け入れた。そうでなければ見捨てていた。冷徹な判断で選んだというのに、兄妹は俺の親が現状を招いたことを知っても懐いてきた。




「朱明様?」


「触るな」




 甘えるようにして俺の腕に絡めてくる手を反射的にかわすと、白麗が驚いている。普段は鬱陶しいとは感じるもののそれぐらいは許していたのに、今は嫌悪すら湧いていた。


 しょんぼりとして横を歩く白麗を見ながら、あの娘と何が違うかと考えてしまう。




 容姿で言うなら男の格好をしている葵よりも白麗は女として美しい。性格だって幼い時から「朱明様」と慕って付いてくる様子は憎めない。それに比べて葵ときたら、俺を下僕として見下して尊大で意地悪く、用事のある時しか呼ぼうとしない都合の良い物扱いだ。


 何日も俺を無視して、水羽とかいう魔とじゃれあっている。




 イライラする!




 八つ当たり紛いに下位の魔を一掃していたら、今夜はかなり奴等を後退させることができた。しばらくは楽できるだろう。




「何かあったのですか?」


「白麗が気にすることではない」




 内心の苛立ちが顔に出ていただろうか。恐々とそれでも心配そうな白麗の頭を軽く撫でてやると、はにかんでいる。


 慕われているのは分かっているが、やはり妹のようにしか思えない。




 本当になぜ葵なのか。


 屈辱を受けたから、あいつも同じような目に合わせてやりたい。あの高慢な矜持をズタズタに引き裂いて泣かせてみたい。無理矢理組み敷いて抱いてやったら、どんな顔をするだろう。




 はあ、と溜め息をついて寝台に寝転がった。戻ってきた自室の窓から白々と朝日が差す。




 違うのだ。確かにあの時葵に欲を感じた。滅茶苦茶にしてやりたいと思ったし、報復をしたいとも思っている。だが根本的に何かが違う。自分が何を望んでいるかが見出だせない。


 人の世など興味も無くて随分と行くこともなかったのに、あいつが呼び出したせいでこんな目に合うのだ。全くもって憎らしい。




 流行り病なるものの蔓延る人の世で、粛々と役目を果たす葵を遠くから見ていた。顔を見れば悶々とする気持ちも興が醒めるかと思ったのだ。




「水羽と言ったか」




 背後に佇む気配に目をやれば、子供の姿をした魔が警戒を顕にこちらを睨んでいる。




「人間に与する魔が何の用だ」


「……………あなた、あたしを知っているのでしょう?」


「そっちこそ、俺が何者か気付いているのだろう?」




 この者のことは名を聞けば分かった。母との因縁を思えば、俺に敵対心を燃やして当然だろう。




「葵のこと、守ってあげて欲しいの」


「は?」




 恨み言でも言い述べるかと思えば、水羽はそんなことを言い出した。




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