第22話湯煙の中で3
「姫様………………姫様、こちらでございます」
「私のことか?」
湯殿まで宿の者に案内されて歩いていたら、そんな風に呼ばれて驚いた。なんて新鮮な響きだろう。
「世話は要りません」
付き添いを断り、一人脱衣場で着物を脱ぐ。宿に点在する湯殿の中でも奥まった場所にあるそこは貸し切りで私だけがいる。
誰の目にも晒されずに気兼ねなく『女湯』から入れたのは、かなり有難い。
鬘も丁寧に外すと、短い髪を一筋触る。頭が軽くなったが何となく淋しい。
竹の戸を引き入った先には、思ったよりもこじんまりとした温泉が湧いていた。とは言っても、我が家の広い風呂ぐらいだろうか。湯の色は金色とも見える黄土色の濁り湯で、とろみがあった。
前を隠していた拭き布を取り去り体を清めてから、ゆっくりと湯に身を沈めれば熱さが脚先から昇ってくるようだ。
「ふう…………………」
夏に温泉とはどうかと思ったが、とても心地よいものだ。自分の中の悪いものが全て洗われるような爽快な気分だ。
縁に俯せになって、肩が湯から出る程度まで湯に浸かって楽しむ。
大人数で来たのに、一人贅沢に湯を使わせてもらっていいのだろうか。星比古の気遣いに礼をせねばならないな。
縁は磨かれた黒石が囲っていて、顔半分をくっ付ければ僅かにひやりと冷たい。気を抜いて、ぼうっとしていたら、高い竹垣の向こうから湯を使う音が聴こえてきた。
おそらく向こう側は男湯なのだろう。
「葵、入っているか?」
面倒な。
いい気分のところに、わざわざ声を掛けてこなくてもいいだろうに。
「………………入っています」
「湯が熱いな。のぼせるなよ」
「はい」
「一人では淋しかろう。こちらへ参らぬか?」
「ありがたいですが、高貴な方の肌を目にするなど畏れ多いので、ご遠慮申し上げます」
「先程私の前で遠慮なく転げていただろうに」
いちいち絡んでくることに苛立ちを覚える。私は基本的に一人の時間を楽しむことが好きな傾向にある。
「………………一人でのんびりしたいのですが」
「折角共に過ごそうと思ったのに、淋しいぞ」
「わたくし、恥ずか」
言い終わる前に、ふいに目に入った靴先にしばし固まる。嘘だろ、と見上げた先には、こちらを腕組みをして見下ろす朱明がいた。
「な…………な…………」
「あの男、ぬけぬけと何が淋しいだ」
眉間に皺を寄せて不機嫌さを全体に漂わせているにも関わらず、口元は笑みを浮かべている。
「きゃっ………………むがっ」
条件反射で手元にあった桶を掴んだところを、予測していた素早さで朱明の片手が手首を封じ、もう片方の手は私の口を塞いだ。
「おまえもおまえだ。何が恥ずかしゅうございますだ?襲わないで下さいましね?何調子づいている」
裸体を晒しては性別を誤魔化せないし、私にも羞恥というものがある。温泉の縁に俯せになった状態から動けない私をどう思ったのか、朱明は屈んで顔を覗きこんでくる。
「そんなにはしゃぐなら、女になればいいだろう?」
冷たい声音に驚いてもがくのを止めた。
「葵、どうした?」
低く抑えた朱明の声は聴こえていないらしい。不自然に途切れた返事に、星比古が怪訝そうに声を掛けてきた。
「……………………………………」
口を塞ぐ手を掴み、『外せ』と目で合図すると、見定めるように目を細めた朱明が塞いでいた手を下ろした。
「葵、何かあったのか?」
「いいえ、先に出ますね」
「そうか、分かった。私も出る」
水音がして、しばらくすると静かになった。男湯に入っていた星比古が出て行ったのだろう。
それにしても熱い。私も湯から出たいのだが、こちらを見ている朱明がいる限り出られないし、彼が立ち去る気配はない。
「朱明、怒っているのか?」
「怒っている?不快なだけだ、この上無く」
怒っているんじゃないか!
しかも毎度私が無防備でいる時に、呼んでもないのに突然現れるのはどういう了見だ………………とは言える雰囲気ではなさそうだ。
「では……………なぜそんなに不快なんだ?」
言った途端、頭がクラクラとした。のぼせてしまったようだ。
「分からないか?そうだな、俺を従魔だとしか思っていない傲慢なおまえが分かるはずがない。だが」
目が回って思わず顔に手をやる私に、朱明は容赦なく肩を押さえるようにして掴んだ。
「俺にも感情があることを知っているか?」
「……………な、に?」
ボウッとした頭では、朱明が何を言いたいのか分からない。
私が倒れる前に話は後にして出ていって欲しいのだが、朱明の怒りにそう命じる言葉が出てこない。
命じることで、彼が離れていってしまうのではないかという不安を感じた。
「朱明、とにかく……………ここから出る、から…………熱い」
「…………………………」
肩を掴む手は緩まない。私の状態を見ているかのような朱明に気付いて、気力が萎えて顔を突っ伏した。
「そろそろか……………いい気味だ」
呟きを聞いて、怒りが沸いた。
朱明は、わざと私をのぼせさせようてしているのだ。
「朱明……………何を」
殺せはしないはずだ。だがこのまま意識を失えば、困ったことになる。
「僕がいいというまで…………目を、閉じろ。着物を僕に、被せるんだ」
「それだけでいいのか?」
揶揄するような声に、唇を噛み締める。
「助けろ」
ハアハアと呼吸している私に、着ていた赤い打ち着が頭まで被せられる。
「なあ葵、仕える俺にも見返りは必要だと思うのだが」
何を言っている?
自らの身を包むので精一杯で、問うこともままならない。ザバッと湯から抱き上げられた時には、力が抜けてぐったりと身を任せていた。
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