第362話 【幕間】宰相と訪問者①
……話は、ウェルハイゼス公爵軍が東部のドヌーブ伯爵領に攻め入った頃に遡る。
この日アリステリア王国の宰相レガニスの元に届いた王国軍からの定期報告書には、東部連合に与した貴族領を次々と制圧して侵攻を続けるウェルハイゼス公爵軍の様子がこと細かく記載されていた。
連戦連勝。
それも、損耗などほとんど無いに等しい圧倒的な強さ。
敵軍は一切の容赦なく叩き潰すが、戦禍から民を遠ざけることを優先する。
レガニスは宰相執務室の椅子に座り、報告書をじっと見つめながら無意識のうちに何度も溜息を洩らしてしまっている。
王都の南平原で行われた強大な魔法攻撃による一方的な殲滅のことは、その現場となった所を視察しても尚、レガニスには信じがたい話だった。現在侵攻中の公爵軍にはその極めて特別な部隊は帯同しておらず、通常戦力のみの編成だと報告書には書かれている。だが、そうであってもこんな圧倒的な戦果を上げている。
最前線に立って貰っている側としては喜ばしいことなのに、その強さをレガニスは脅威だと感じていた。王家と大公家と公爵家という御三家の今の関係性を見れば矛先がこちらに向かうことはないと頭では理解していても、これだけの戦力には懸念を抱かざるを得ない。想定を超え過ぎている力に、どうしてもそう考えてしまう。
次代に憂いを残さないためだ。
先日、王がそう言った時のことをレガニスは思い出していた。
何年も前から、王家に非協力的で王政に対して批判ばかりする東部貴族の言動は、サラザール伯爵が台頭したことで一層顕著なものになっていた。
それは東部独立論なるものが半ば公然と語られる状況へと推移し、東部のドヌーブ伯爵家の血脈を有する第二王子がそこに擁立されるべきだと説く者が増えている。
「レガニス、王国の病巣は東部だけではない。そなたもその認識は同じであろう?」
「はい。以前から申し上げていますように、多くの貴族領で貧富の差が広がっております。しかも最も富を増やしているのが治めている領主であるということが、病状をはっきりと表しております」
王は静かに頷いた。
「うむ…。最大の病巣は隠れて己の利のみに傾注する腐った貴族とそれに寄生する怠惰な軍人と官憲どもだ。これらを一掃しなければ王国の病は治らない」
「……」
「同じことを憂いているはずのサラザールは、併せ持つ野心を抑えることが出来ないだろう。あれはそういう男だ…。内戦になる。そして腐敗し切った王国軍は惨敗するだろう。だが最終的にはウェルハイゼスとレヴァインが勝つ。それでいい…。王国の膿を出し尽くすと同時に、安穏とした貴族どもにも危機感を抱かせる為の警鐘を鳴らす機会だ。多くの血が流れることの責任は最終的には私が負う。だからそなたも、引退を覚悟しておいてくれ」
王が語ったこと、レガニスはその全てに納得できる訳ではないが王が言外に滲ませた真意についてはよく理解している。
内戦が終われば、その責を負う形で王は退位するつもりなのだろう。
それは軍部のみならず、文官など行政に関わる者達の刷新を意味する。
文官、行政トップの宰相としての悔いは、どうしてもっと大胆に思い描いた通りに執り行うことが出来なかったのかということ。
ずっと考えているその問いへの答えを、レガニスは既に自ら導き出している。
王にも自分にも足りなかったのは、圧倒的な力だ。政治力や武力でも経済力でもいい。王国全土がひれ伏すような圧倒的なその何かが欲しい。権威を取り戻すというのはそういうことだ。
王より皇太子と年齢が近いレガニスはまだまだこれからと言っていい年齢で、王国を動かせる宰相の職にはまだ未練がある。もっとやれたはず。これからも、もっとやれるはずだ。
そんな思いがレガニスの中には燻っている。
いろんな形で試みた平時の自浄努力は結果を出せず、しかも結局は二つの公家頼みとなってしまう他力本願という悔いは口惜しさを際立たせ、いつしか未練は執着へと変わり始めていることを、この時点ではレガニス本人はまだ自覚していない。
しばらくして、頭を振って熟考から戻ったレガニスはペンを執った。
そして王城の文官が貴族向けの書をしたためる際に用いる厚手の高級紙に丁寧な文章を書き始めた。
それはウェルハイゼス公爵妃のユリアに送る書簡だ。
内容を要約すると、宰相の自分には公爵軍の戦力の詳細を全て明かすべきだと訴えかけるもの。王国軍の編成の参考にしたいなどというもっともらしい理由を最初に示し、失礼にならない遠回しな表現ではあるが、結局は情報開示を迫っている内容だ。
しかし内戦が始まって以降、幾度か同じような書簡を公爵妃のユリアに送っているのに、レガニスは満足のいく回答は一度も得ていない。
どうせまた、肝心な部分には一切言及しない定型文で返されるだけだろう。
書き終えて封をしながら、レガニスはそんなことを思う。
そして同時に、どうあがいても公家の一つであるウェルハイゼスに対しては強い影響を及ぼせない自身の立場を恨めしく、少し憤りの気持ちさえも沸いてしまうほどに悔しく思うのだった。
その数日後。
昼過ぎから実施していた王城の主要な文官を集めた会議を終えてレガニスが執務室に戻ると、彼の屋敷の警護を担当している衛兵が待っていた。
「……先ほど、ご自宅にやって来た一人の怪しい者を捕縛しました。面会を希望すると言っています」
挨拶もそこそこにそう切り出してきた衛兵を半ば睨んだレガニスは、咄嗟に思い直して衛兵からの続きの言葉を待った。
レガニスの自宅の警備は常に衛兵が行っている。しかしこの程度のことをわざわざ王城にまで知らせに来るのは、彼らの通常のルーチンでは有り得ない。特別なことなのだとレガニスは思い直していた。
レガニスの視線で続きを促されていることを悟った衛兵は、声を殊更に潜めてレガニスに囁く。
「その者は、これを持参していました。レガニス様への密書だとのことです」
密書という言葉に眉をひそめて訝しげな顔のレガニスは、衛兵が懐から取り出した封書を受け取った。すぐに差出人の名を確認するがどこにも名は見当たらない。
だが…。
封を閉じる為に施された封蠟に押された印を見た瞬間、レガニスは思わず息を呑んだ。
「サラザール…。本物か?」
「押印は本物だと思われます。ですので、こうして届けに参りました」
衛兵はそのまま待たせて自身の執務机に座ったレガニスは、もう一度封書の両面をひっくり返して確かめるとおもむろに開封した。
『レガニス殿も傍流ながら初代王の血を継ぐ者。真実を知るべきである』
そんな書き出しで始まる書簡を読み進むほどに、明らかにレガニスは身体の震えを感じ始めていた。どこか身体の奥深い所で血が滾り熱い思いが少しずつこみ上げてくるような、それでいて身体の大半はまだ冷たく凍り付いたままのような感覚。
伝説で語られている聖櫃は、イアンザード城塞の地下深くに実在していること。そして王の血筋を受け継いだ者だけにそれを開ける資格があるという言い伝えも、また確かなことであると。
『……ウェルハイゼスの武力は強大であり、我々が理想とする王国の未来は実現できない可能性が高い。しかし、イゼルア帝国の属国と成り下がったウェルハイゼスには決して聖櫃を渡してはならない。それは帝国の苛烈な侵略の始まりを意味する。貴殿は、その最悪の道筋を既に見通せているはずだ……』
そんなことも書かれている書簡の最後まで一気に読み終えたレガニスは、様々な思いが自分の中に渦巻き始めて混乱してしまっていると感じた。少し落ち着けと自分に言い聞かせながらレガニスは、サラザール伯爵のこと。そして以前に行われた会議の記憶がよみがえる。
それは帝国との和平の是非について領地を持つ貴族間の意見交換を目的として開かれたもので、サラザール伯爵と最後に直接言葉を交わしたのがその会議だった。
その場では、国王自らが筆頭に大勢は友好条約に至る和平に前向きな中にあって、サラザール伯爵と同様にレガニスは比較的慎重な意見を述べて熱すぎる熱を冷ますよう努めたのだった…。
紙面から視線を上げて、待たせている衛兵の方に顔を向けたレガニスは言った。
「その者はどこに捕らえている?」
「まだご自宅前の詰所内です。処遇は判断を仰ぐべきかと思いまして…」
レガニスは、この書簡を持って来た怪しい者は面会希望だと言っているという衛兵の最初の言葉を思い出す。
「すぐ行こう。直接尋問する必要がありそうだ。この書簡の真偽を確かめる」
望み通り、会ってやろう。
続けてそんな独り言を呟いたレガニスは、無意識のうちにどこか楽し気で晴々とした笑みを浮かべていた。
すぐに衛兵と連れだって屋敷に戻ったレガニスは、警護の衛兵達の詰所でその男を一瞥すると屋敷の地下室にその男を移すように指示をする。彼自身は一旦屋敷内の自室に入り、必要だと思える魔道具を幾つか見繕った。
準備が整い取調室のように仕立てられた地下室にレガニスが入った時には、男は拘束されたまま椅子に座っていた。詰所で縛り上げられていた時からの目隠しと猿轡はまだ外されておらず、それでいてこの扱いに不満も不安も表には見せない落ち着いた雰囲気を醸し出していた。
男のすぐ後ろには衛兵が二人立っている。
レガニスは幅の広いテーブルを挟んで男と対面する席に着くと、隣に座った衛兵から差し出された調書を受け取った。そして、その調書の文字をしばらく目で追った後、男の猿轡のみを外すよう示した。
先に口を開いたのは男の方だった。
「こんなに早く直接話せるとは思っていなかったですよ」
目隠しで見えていないのに、レガニス本人が居ることを確信したような薄い笑みを浮かべた口元。そんな男の様子をレガニスは目を細めて観察した。
「……自己紹介をして貰おうか」
少しの沈黙の後のレガニスのこの声を聞いて、男はニヤリと笑った。
しかしその笑いをすぐに引っ込めると、目隠しをされたままの頭を軽く下げた。
「エヴェラード・バウアレージュと申します。どうぞ以後お見知りおきを」
◇◇◇
目隠しも外してしまうと、レガニスは淡々と感情を表に出さずにエヴェラードを問い質し、答える言葉と態度やちょっとした振る舞いについてもしっかりと観察し吟味した。特に、サラザール伯爵との関わりと書簡を託された経緯については視点を変え言葉を変え幾度となく問いをぶつけた。
最初に笑顔を見せたことで明らかなように、エヴェラードは拘束されてこういう事態になることは予め想定していたのだと、レガニスはすぐに気づいている。この男、エヴェラードの口から出てくる言葉は、その全てが用意されたものなのだろうと。
そうして一時間ほど尋問をした後、少し時間を置くことにしたレガニスは一旦その地下室から出た。
地下室からの階段を上がって自室に戻る途中で、自分に付き従っている衛兵の一人にレガニスは囁いた。
「あの男の素性は?」
「はい、早急に情報を集めているところです。バウアレージュ自治領に縁のある者だというのは間違いなさそうですので、それほど時間はかからないと思います」
「続きの尋問は、それを見てからにする。飲み物程度は与えてやれ。拘束は解かず」
「畏まりました」
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