第72話 パートナー
6月も半ばに差し掛かった頃、俺はスーツを着る日々を過ごすようになった。
紫穂里が選んでくれたグレーのスーツに、紫穂里が毎日アイロンをかけてくれるワイシャツ。一丁前に見た目だけはサラリーマンだ。
いわゆるインターンシップの時期になり、俺も将来に向けた準備期間に入った。
「ただいま」
インターンには当日限りのものや3カ月以上の長期のものもあり、今日は一週間のインターンを終えて帰宅した。
「おかえり」
玄関を開けると、エプロン姿の紫穂里がパタパタと迎えに来てくれた。
笑顔の紫穂里は両手を開きながらゆっくりと抱きついてきた。
「お仕事、お疲れ様。お風呂にする? ご飯にする? それとも———」
「紫穂里にする」
耳元で囁く紫穂里に、すかさず返事をすると「ふぇっ?」と驚きの声を上げたので、そのままお姫様抱っこをしてリビングに連れて行った。
「あ、あの陣くん? もうちょっとでご飯できるんだけど、その、ホントにす———」
「あ、ご飯食べるよ」
紫穂里をソファーに座らせ、キスをすると、うらみがましい目で見られた。
「もうっ! からかうだけからかって! そういう意地悪するならしばらくお預けなんだからね?」
ふんっ、と言いながらキッチンに向かった紫穂里の姿に、できもしないことをと思いながらスーツをハンガーにかけて部屋着に着替えた。
「あ〜! なんで自分でジャケット掛けちゃうの? そういうのは奥さんの仕事でしょ?」
焦った表情の紫穂里が、ジャケットをハンガーから外して俺に渡してくる。
「ん?」
訳もわからず受け取った俺に、紫穂里が手を差し出してきた。
「はい、シワになっちゃうからかけておくね」
どうやら徹底的に新婚さんごっこをやるつもりだ。思わず吹き出すと、ジト目を向けられた。
「あっ、ごめん。でも、なんていうか、紫穂里が可愛すぎて。ずるいよ?」
さっきまで不貞腐れたような表情だったのに、変わり身の早いこと。
「もうっ! とりあえずごはん食べよう。デザートがあるかどうかは、陣くん次第なんだからねっ!」
腕組みをした紫穂里がふんっと顔を背けて座る。その仕草にまた吹き出しそうになるが、なんとか堪えることができた。
「いつもありがとうね紫穂里。じゃあ、いただきます」
冗談でも怒ることができない紫穂里は、すでにうれしそうな表情。これだから朱音に『チョロイン』扱いされるんだよな。
「陣くんのために頑張ったんだか、いっぱい食べて、ね?」
「うん、デザートまでおいしくいただくからね」
お茶を淹れてくれた紫穂里が、テーブルに置こうとしたまま固まる。
「あ、そのデザートは買ってなくて、その、……後で一緒に買いに行こ?」
あ、ほんとにデザートのつもりだったんだ。ただ単に一緒に出かけたかっただけか。
「シャトレーゼでいい?」
「うん。アイスも買おうね」
満面の笑みを向けられてしまえば冗談と言えなくなってしまう。冷凍庫入るか?
♢♢♢♢♢
食後、洗い物を終えると背中に張り付く紫穂里の腕の力が強くなった。
「……あのね陣くん。その、聞きたいことがあり、ます」
珍しく沈んだ声の紫穂里に向き合うと、不安そうな表情で俺を見てきた。
「うん? どうした?」
怪訝に思いながらも紫穂里をソファーに座らせ、俺はその正面にしゃがみこんだ。両手をしっかりと握り視線を合わせる。
「……うん、いまね、ウチの会社もインターンやってるんだ。その、陣くんはエントリーしないのかな? って」
就職先については俺自身、迷っているために紫穂里にも明言できないでいたけど、その話を避けていた。
「陣くんの人生だし、いまの私がとやかく言うべきじゃないんだけどね? 私の希望としては、一緒に働けたらなって思ってるの」
視線を下げ、俯いてしまった紫穂里。
どこまで言うべきだろう? 結論としては『いまは』ないと言うこと。
♢♢♢♢♢
紫穂里の進学のために、引っ越しの準備の手伝いをしていたときのこと。
休憩中にふと、お母さんと2人になる機会があった。
「西くんも来年は受験ね。紫穂里と同じところに行くつもりかな?」
何気ない話の流れから俺の将来の話になった。お母さんも軽い口調で話してきたので、俺も気軽に答えていた。
「はい。いまマーケティングに興味を持っているので。濃尾大学には商学部もあって就職にも強いと聞いてますからね」
「ふふっ。そこは紫穂里がいるからって答えで十分よ?」
「あっ」
当たり前のことだが、お母さん相手だと常にやられっぱなしだ。
「でも、西くんが紫穂里の想いを受け止めてくれて良かったわ。ずっと片思いしてたし、若いうちは好きなことさせてあげたいからね」
「あっ、はい。なんかすみません」
「あぁっ、責めてないわよ? 寧ろありがとうね。恋愛の一つもできなきゃ、男性社会ではやっていけないわよ」
お母さんは頬杖をつきながら俺に笑顔を向けてくれた。
「ねぇ、西くん。将来はどんな仕事したいとか考えてる?」
その質問に、俺はドキッとした。
本音としては紫穂里の側で支えてやりたい。でも、彼女のコネ入社とか、社長の座を狙っているとか陰口を叩かれるだろうという思いがあった。そして、その矛先が俺にだけ向いているのならまだいいが、紫穂里の立場を悪くすることも考えられる。
「……まだ、ですね」
高校生の俺にそこまでの覚悟はなかった。
「まだ高校生だもんね。そうね、いずれはウチがヘッドハンティングしたくなるような人になってくれるといいわね」
ほんとに軽く、軽い口調でお母さんが発した言葉には『紫穂里のそばにいたければ、よそで結果を出しなさい』と言われてるような言葉だった。
♢♢♢♢♢
「ふぅ〜、紫穂里には嘘も誤魔化しもしないって約束だな」
赤い目のまま顔を上げた紫穂里の瞳から溢れる涙を拭き取り、頭を撫でる。
「……うん。約束したよ」
消え入りそうな声で呟く紫穂里の目を真っ直ぐに見て正直に話すことに決めた。
「すぐには、無理だと思う。俺が入ることで紫穂里の立場が悪くなることは十分にあり得ることだろ? でもね、俺としても紫穂里とは公私共に支え合える夫婦になりたいと思ってるんだ」
「……夫婦!」
その言葉でいろんな想像を働かせたのだろう。表情が綻び握る手の力も強くなった。
「正直に言うと、紫穂里のコネで入社ってダセエなって思ってた頃もあったよ? それに紫穂里の恋人ってことは、人によっては面白くない存在だろ?」
「でも、それじゃあ結婚も、できないってこと?」
「結婚はプライベートなことじゃない? 生活力がつけばすぐにでもしたいよ? でも仕事でのパートナーになるには経験を積んでからじゃないと、な」
お母さんが言っていたことは、真意がわからないので伏せておいた。間違った意味で伝わってしまうと後が大変だ。
「そっか。ちゃんと考えてくれてるんだね。仕事のことも、その……結婚のことも」
俺の背中に手を回した紫穂里が「ギュッ」と言いながら抱きついてくる。
不安にさせていた罪悪感から、俺は紫穂里のしたいようにさせてあげた。
「納得できた?」
「うん、一応は、ね。私の問題もあるから強くは言えないけど、私も頑張らないとね」
そう宣言する紫穂里だが、生真面目な彼女が頑張り過ぎないか、いまから不安になる。
「俺の方が頑張らないとな」
紫穂里の夢が叶うかどうかは、俺次第。
「えっと、話したいことも話せたから、その……デザートタイムにする」
この時間ならコンビニだろうと思い、財布を取りに行こうとすると、強引に腕を引っ張られてベッドに倒された。
「さっきのは、冗談だから、ね。デザートは備え付けので、えっと我慢してね?」
我が家に常備されているデザートは、他所では手に入らない限定品のことだった。
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