和葉Ⅳ

「キスだけっていうのも、何だか味気ない気がしません?」


 明楽が目を覚ましてから翌日。

 おはようのキスを要求する和葉に、ほんの数秒合わせるだけのキスをした後で、彼女は不満そうに頬を膨らませた。


「や、だってこれ見てよ」


 明楽は困った表情を浮かべて、自分の体を見回した。

 両手両足が骨折しているため、ギプスや包帯でぐるぐる巻き。肋骨は二本、何度も殴られたせいで左の眼底にもヒビが入っている。裂傷は数える方が面倒なくらいだし、唇も切れていたりする。軽いキス以上に何ができるんだ、と非難の目を向けた。


「……舌は何ともないんですよね」

「ねえ、ここって病院だって分かってる?」

「だって個室ですし、鍵つけましたし。定期健診と食事の時以外じゃ呼ばなきゃ誰も来ませんよ」

「っていうか唇切れてて痛いんだけど……」

「べー、って舌出してくれたら、もうちょっと愛の籠ったキスが出来ると思うんですよ」

「舌も結構切れてるんだけど」

「えー」


 つまんないです、と愚痴を吐いてベッドに寝転がった。

 足をパタパタとさせて、うーん、と唸っている。白いワンピースのスカートがはためいて、明楽は何となく目を逸らした。


 明楽の病状については、和葉も承知している。

 自力ではまともに動けない上に、車椅子に乗る事だって困難な状態だ。恐らく彼女が望んでいるだろうコトは、今の少年には出来ないだろう。


(まぁ、分かってはいるんだろうけど……)


 本気で拗ねている辺り、冗談ではなさそうであるけれど。

 とにかく今は、あまりそういうコトをしたいとは思えなかった。


「仕方ないですね」


 投げやりな言い方。

 ごろりと寝返りをうって、明楽へと視線を向ける。全く「仕方ない」だなんて思っていなさそうな顔ではあったが、とりあえずは譲歩してくれるようだ。


「とりあえずは我慢します……それよりも、昨日言った事なんですけど」

「昨日言ったこと?」

「ほら、これからの事決めましょうって言ったじゃないですか。二度とこんな事がないように、ちゃんと私たちのルールみたいのを決めた方が良いと思うんです」


 じっと明楽を見つめて、和葉は言った。

 枕に顔を半分埋めているためか、彼女の表情は伺えない。ただあまり機嫌が良い訳ではなさそうだった。


「ルール?」

「そうです。と言うことで、リストにしてみました」


 ごそごそとハンドバッグを漁って、折り畳まれたルーズリーフを取り出す。

 裏面からでも分かるくらい、びっしりと書いてあった。内心「嘘だよね?」と焦る中、和葉は咳払いをしてから読み上げ始めた。


「では読みますね。えーっと」

「ちょ、ちょっと待った。なんか凄いいっぱい書かれてない?」

「え、そうですか?」


 そんな事ありませんよ、と眉を顰める。

 またバッグを漁って、同じような紙を数枚取り出した。


「だってこれまだ一枚目ですよ。全部で七枚ですし、そんなに多くはありません。これでも減らしたくらいなんですから」


 絶句する明楽に、和葉は紙をひらひらと揺らして見せた。

 










 明楽くんが帰ってきた。


 病室のベッドでずっと眠りこけているけれど、彼が帰ってきた。

 体はボロボロで、まるで事故にでも遭ったかのように酷い状態だった。その上注射痕がいくつもあって、おかしな薬物も使われていたようだと担当のお医者さんから聞いた。

 そんな言葉が耳に入った時は頭が沸騰しそうになって、目の奥が真っ赤になった。あの女が目の前にいれば、きっとぐちゃぐちゃにしてしまっただろう。それくらい、私は頭にきていた。



―――それはもちろん、自分にも。



 彼を守れなかった、救えなかった自分にも。

 歯痒くて悔しくて、眠る明楽くんを見る度に私の胸は刺されたように痛んだ。


 手当ても終わって、ベッドに横たわって。

 腕から伸びる管も、包帯だらけの顔を覆った呼吸器も、不安にさせる線を引き続ける心電図も、全てが私を苛立たせた。


 彼はもう一週間近く、目を覚まさない。

 先生は問題ないと言うが、どこが問題ないのだろうか。体の小さな、まだ十七歳の少年が死ぬような目に遭ったというのに。自分だけでは歩くことも、コップを持つこともできない状態になったというのに。やっと再会できたと思ったのに、これはあまりにも残酷だ。


 穏やかな表情で眠る明楽さんの傍に立って、私はどれくらい泣いたのだろうか。


 お義姉様は仕事の関係で、あまりここには長くいられない。

 毎晩見舞いには来ているものの、せいぜいが数時間程度。学校を休んで付きっ切りの私は、ほとんどの時間を彼と二人きりで過ごしていた。


 呼びかけに反応するかも、と言われれば、私は他愛無い話をずっとした。

 話題がなくても無理矢理捻り出して、ただひたすらに喋り続けた。今までのこと、私の子供の話や、二人で描きたい将来の話。天気の話なんか、もう何百回したか分からない。


 それでも一向に目を覚まさない明楽くんに、私の心は崩れかける寸前だった。


 仮に、目を覚まさなかったら?

 仮に、彼がこのまま無くなってしまったら?


 あり得ない話だとは分かっていても、そんな恐怖が私を襲う。

 それが怖くて、私は涙を流しながら、明楽くんの手を取って話しかける。

 いけないと知っていながら、呼吸器を取ってキスをする。髪を撫でて、眠ることも忘れて彼の傍で語り掛け続けた。


「……明楽、くん」


 明楽くんの手を握って、昇る月を眺めながら、私は色々なことを考えた。


 彼が攫われたのも、不用意にあの女に近づかせてしまったのも、私の落ち度だ。

 片時も離れなければ、こんな事にはならなかった。他の女と接点を持たせた事自体が間違いだったのだ。本当なら学校を辞めてもらって、一生を私の家で過ごしてもらいたいくらいである。お金の心配はないのだから、彼が十八歳になったらすぐに結婚して、私だけを見て暮らしてほしい。そのための準備も、全て整っているのだから。


 そうだ、それがいい。

 明楽くんも、これで分かっただろう。

 他の女がどれ程危険で、傷付ける存在なのか。それから彼を守れるのは誰なのか。誰と一緒にいるべきなのか。

 百歩……いや、百万歩譲って、お義姉様くらいなら今は許してもいいかもしれない。一応保護者なのだから、結婚するまでは彼女を利用して問題ないだろう。もちろん管理は私がするけれど。


 となれば、色々と決め事は必要だ。


 二人の世界を盤石にする、二人だけの法律みたいなもの。

 なんだかロマンチックな気がして、私はくすりと笑ってしまった。


 カバンに入っていたルーズリーフを出して、私はペンを握る。

 書き出したら止まらなくて、支離滅裂になってしまったところもあるけれど。


 ただ私は、思いつく限りの事を片っ端から書いてやったのだ。













「―――以上が、私たちのルールです」


 どや、と決め顔をしてみせて、和葉はルーズリーフを折り畳む。

 読み上げるだけで二十分。かなり長くて、初めの方は忘れかけていたけれど、明楽は何となく彼女の胸の内を知る事が出来た。


「えー、っと。要は、家にいるとき以外は、ずっと和葉さんと一緒にいるってこと?」

「大まかには。卒業後は結婚、私の家で主夫をしてもらいます。他人との接触や会話は私が傍にいるとき以外は許しません。まぁ、男友達くらいはいいですが」

「……それって、どうなんだろう」

「不満ですか?」

「不満っていうかさ。なんて言うか、その……」


 言い淀む明楽に、和葉ははっきりと言い切った。


「まだ分かりませんか。他人は、明楽くんを傷付けるんですよ。私が守らなきゃ、またこんな目に遭うかもしれないんですよ」

「……う、ん」

「二度と、明楽くんを離しません。私が守ります。貴方を幸せに出来るのは私だけで、貴方が幸せになるには私が必要なんです。いい加減気付いてくださいよ。私が居なかったら、明楽くんは生きていけないんだって。貴方に必要なのは、私だけなんだって」


 そうだね、と明楽は答えた。

 心の中は複雑な気持ちでいっぱいではあったが、彼女が自分を思って言っているのは分かっているのだ。

 確かに恋人が他人に攫われて、殺される寸前までいけばそう言いたくなるのも無理はないだろう。それは否定出来なかったし、何より今は彼女を安心させたい気持ちの方が強かった。


「いきなり全部は出来ないかもしれないけど。できるだけ、努力してみるよ」

「……平気です。私が全部守らせますから」


 あはは、と苦笑い。

 「笑いごとじゃありません」と拗ねる和葉に、明楽は誤魔化すようにまた笑った。

 

「ごめんね」


 何に対しての謝罪なのか。

 きっと和葉は理解していないだろう。それでも、明楽は謝るしかなかった。


「もう何回も聞きました」

「うん。それでも、ごめんね」

「いいです、もう。全部済んだコトですし、大切なのはこれからですから」


 溜息を吐く和葉。

 正直に言えば、納得はしていない。それでも和葉は色々な感情を押し殺した。全てを飲み込むにはもっと長い時間がかかるだろうが、今はこれでいいのだ。少なくとも、彼の前では。


「ねえ」


 空気は決して良くはなかった。

 が、明楽にはどうしても言わなければならないことがあった。


「確認したいこと、っていうか、聞きたいことがあるんだ」


 はい、と和葉が明楽に向き直った。

 少年の声が震えている。それを察して、和葉の顔が強張った


「和葉さんにとって、僕ってなに?」

「最愛の人です。恋人で、婚約者で、生涯を一生添い遂げる大切な人です」


 うん、と明楽は呟いた。

 和葉らしく即答だった。迷いがなく、目も真剣そのもの。自分の言葉に疑いなど微塵もなくて、ある種の覚悟のようなものが籠っていた。


「それが、聞きたいことですか?」

「うん、そうだね。はは、なんか照れるかも」


 渇いた笑みを零して、明楽は彼女の目を見た。

 困惑している様子はなく、「変な明楽くん」と困ったように笑っていた。


「ごめんね。ありがとう」

「明楽くんはどうなんですか?私だけ言わせてずるいですよ」

「あー、うん。そうか。そうだよね……うん、僕も好きだよ。大事に思ってる」

「えー。なんか軽くないですか?」

「そんなことないよ。照れ臭いだけ」

「むー……」


 照れ臭いのは本当だ。

 面と向かって好きと言うのはいつまで経っても慣れないものだ。とは言え嘘ではないのだから、これで伝わってほしいと思った。


 明楽はその言葉を反芻した。

 大切。最愛。離さない。色々言われたが、初めて言われた言葉という訳ではなかった。



―――先輩も、母も、同じ事を言っていたから。



 和葉の瞳が、瞬きもせず少年を捉えていた。


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