明楽Ⅵ

 声が聞こえる。


 くぐもった声だ。

 痛む体と重い頭を起こして、声の方に視線を送った。ぼんやりとしたままの視界には鍵付きのドアと、四辺を固められた窓に曇った空。目覚めて早々に気分は重かった。


 体を起こそうとすると、腕に酷い痛みを感じた。

 手首には手錠の痕が残り、長時間拘束されたため血が滲んでいる。歯無数の歯形が体中についているし、散々殴られた頬や腹には青痣だらけ。なんでこんな目に遭わなきゃいけないのか、と考える段階はとっくに終わっていて、諦めの境地に辿りつつあった。


 あぁ、と思い出す。


 思考はまだぼんやりとしていた。

 ふわふわと雲の上にいるようで、地に足が着いていない感じ。キングサイズのベッドも、所々に血の付いたシーツも、周囲を囲む器具の数々も。カーテンの隙間から差し込む陽光さえ、何だか現実味がなかった。

 

 どん、と大きな音が聞こえた。

 追いかける怒声は菖蒲のものだ。怒るときも笑うときもクールな彼女にしては珍しいことである。余程腹の立つことがあったのだろうかと、想像するだけで体がガタガタと震え出した。


(そういえば、熱出して、それで……)


 ピクリとも動けなくなるくらい、酷い熱を出して倒れたのだ。

 昨日の事だったのか、それよりも前だったかは分からない。

 部屋に時計はなく、スマートフォンなども取り上げられている。昼も夜もなく責め立てられる生活のせいで、時間感覚はほとんどなかった。


 おでこに手を当ててみる。

 あまり熱さは感じないが、体は鉛のように重い。

 正直なところ、体を起こすだけで一苦労だったりする。今すぐ横になってしまいたい気持ちではあるものの、未だに激昂する菖蒲が気になってしまっていた。



―――あまり、積極的に関わるべきではない。



 とは、思う。

 それはそうだ。信頼していた彼女に眠らされ、拉致され、監禁されて。母親と暮らしていたときを思い出させるような扱いを受けた。体の傷は増える一方で、ついに酷い熱を出して倒れてしまった。


(体はまだいいけど。でも……)


 胸を抑える。

 白いシャツにくしゃりと皺が作られた。染み込んだ汗が不快だった。


 心の方は、体よりも深刻的だ。

 今はまだ耐えられる。これが初めてではないのだ。

 頭を伏せて。耳を塞いで。目を閉じれば、あとは口を閉じて我慢すればいい。どれだけ殴られようが犯されようが、そうしていられる限りは大丈夫だと自分に言い聞かせられるから。


(でも、あれは嫌だ……)

 

 鈍く光る針。

 なんの刻印もない青い錠剤。

 あれは経験したことのない未知の領域だった。氷を血管に直接流し込まれるような、目の奥でマグマが煮え滾っているような感覚。すぐにぐずぐずに頭が溶かされて、体にずっと電気が走るあの恐怖。衣擦れや吐息だけで痙攣するしてしまうのだから、心を閉じ込める暇もない。


 息が荒くなる。

 きりきりと痛み出した腹痛に歯を食い縛る。最近は気を抜けばすぐにこうだった。何かを考えればすぐに体が悲鳴を上げるのだ。だから明楽は、何かを考えようとすること自体を止めたのだった。



―――姉さん、大丈夫かな。



 何よりも頭に浮かんだのは、唯一の肉親の顔。


 和葉の顔は、今はぼんやりと掠れていた。












『だからぁー。あの人すっごいイライラしてて、話しかけられる雰囲気じゃないんですってば』


 電話越しに聞こえる声は間延びしていて、緊張感の欠片もない。

 あざといと言うか、媚びた声音は同性からすれば不快なだけである。もしかしたら異性にだってウケが悪い可能性だってあるだろうが、彼女は分かっててやってるのだとすぐに理解した。


『でも何だか憔悴しているというか、半分諦めムード漂ってる感じですよ。ほっといてもいいんじゃないですかねー?』

「諦める?あの女が?あり得ないわね」

『そうですかねー……。ま、今分かるのはこれくらいですし、しばらくはのんびりできるんじゃないですか?』


 スマートフォンがみしり、と軋んだ。

 この女はよくもまあ抜け抜けと言えるものだ。自分が何も知らないとでも思っているのだろうか。


「……それはそうと」


 ほんの少し、声に怒気が混じる。

 それでも彼女には伝わらなかったようだ。


「私に何か言ってないことがあるんじゃないかしら」

『何かって何がですー?』

「そうね……例えば、朝体育館裏に連れていかれて、色々お喋りしたこととか。随分仲良くなったそうじゃない?」

『……』

「私が使ってるのが、貴女だけとでも思ったのかしら」


 生徒会長もして、人望だってそれなりにある。

 菖蒲を慕う後輩は少なくなかった。比例して、自分の言う事なら何でも聞くという手駒も。


『……はー。もう、人が悪いですね、会長って』


 バレちゃいましたか、と軽口。


「いい度胸してるわ、貴女」

『ま、バレちゃってるんならいいです。ってゆーか、それでも黙ってた私を褒めてほしいんですけど』

「あら、口を割らなかったの?」

『当然じゃないですか。会長の方が怖いですもん』

「その割には舐めた口利くのよね。思ってもないくせに」


 あはは、と笑い声。

 言葉と態度が噛み合っていないのだ。だからどうと言う訳でもないが、あまり美弥を好きになれないのはこういった部分のせいかもしれない。


『でもホントに何も言ってませんから。脅されて便利に使われてるだけって事になってます。と言うことで、今日の報告は以上ですー』


 そう、と一言だけ返す。

 これ以上話しても意味はないだろう。と言うか、これ以上は頭の血管が切れてしまいそうだ。

 

『ではまた、明日電話しますね』


 言って、美弥は通話を切った。

 電子音が耳に残る中、菖蒲は少しだけ奥歯を鳴らした。

 

(そんなわけないわよね。そんな言い訳だけで、あの女が引き下がるはずないもの)


 美弥はきっと嘘を吐いている。

 彼女と和葉のやり取りを見ていた女子生徒の話では、スマートフォンを渡していたりもしたらしい。メッセージのやり取りを見せたのか、それとも写真や動画を見せたのかは分からないが、それが原因で場所を特定されないとも言い切れないのだ。


 であれば、やるべきことは一つである。


 菖蒲はそのまま、父の部下に電話を掛けた。

 世話役という名の奴隷たち。内心小娘にパシリのような扱いを受けているのは気に食わないだろうが、知った事じゃない。粗相があれば命はないのだから、せいぜいこき使ってやればよかった。


 ワンコールで電話に出た。

 さすが、ここら辺はしっかり躾けられた犬である。菖蒲は淡々と言葉を吐いた。


「桐生 和葉が感付いた可能性があるわ。面倒だけれど、予定を前倒ししてちょうだい。……ええ、そう。片付けてしまっていいわ」


 用意していたプランの内の一つ。

 一番のベストは、明楽を完全に篭絡してそれを見せつけてやるつもりだった。

 心折れて諦めるなら良し。奪い返そうとするなら、さっさと始末してしまえばいい。どうせ海外に高飛びしても追い掛けてくるような蛇女なのだから、どちらかと言えば後者のほうがメインプランではあったが。


 要は、邪魔な害虫はさっさと殺してしまえ、ということだ。

 

 姉の方は後から考えればいい。

 どうせあの女も和葉と似たようなものだから、その内同じように不幸な事故に遭ってもらうだけなのだけれど。


 いくつか指示を出して、電話を切ろうとする―――その前にもう一つ、面倒ごとになる前に、と追加した。


「橘 美弥。あの子ももう要らないわ」


 嘘を吐いて、裏切るような愚か者は不要である。

 父のように口先だけの裏切り者は、存在するだけで虫唾が走るのだ。


 世話役は「承知しました」と一言だけ告げて、電話を切った。

 小娘相手なら万が一の失敗もない。労いの言葉なんて掛けてやるつもりもないが、少しは感謝してやってもいい。


 ふう、と息を吐いて、スマートフォンをソファへ放り投げる。

 色々と声を荒げてしまったこともあってか、じんわりと汗をかいていた。

 美弥の他に使っていた後輩たちがあまりにも使い物にならなかったせいである。ロクでもない報告ばかりで、流石に怒鳴り散らしてやったのだ。

 思い出すだけで腹が立ってきて、傍にあった椅子を思い切り蹴り上げた。


「あぁ、もう……お風呂でも行こうかしら」


 明楽を起こして、体を洗ってもらおうか―――と考えて、思い留まる。

 つい昨夜まで酷い熱を出していたのだから、少しくらいは休ませてあげるべきだろう。体調が戻っていたらどうせまた汗を掻くハメになるだろうし、気晴らしにのんびりと半身浴でもしたい気分だった。


(というか、汗だくの明楽さんっていうのも……)


 悪くない。むしろ良いかもしれない。

 彼は嫌がるだろうが、全身の汗を舐めとってあげるのもいい。たっぷり匂いを堪能して、空調を切ったまま行為に耽るのも悪くない。汗まみれで絡み合う自分たちを想像して、菖蒲は体を震わせた。


「……ふふ。やっぱり明楽さん、素敵だわ」


 苛立ちは消え、頬が緩む。

 頭の中は妄想でいっぱいだった。


 バスルームへ入って、湯舟に半分だけ湯を張った。

 お気に入りのアロマにバスソルト。一日ぶりにいちゃいちゃするのだから、少しくらい時間をかけて体を磨いておきたかった。



 ソファに投げたスマートフォンの事は、すっかり頭から抜け落ちていた。












 リビングから人の気配が消えて、小さく扉が閉まる音が聞こえた。


 明楽は恐る恐るドアノブを回す。

 菖蒲はいなかった。耳を澄ますと、僅かにシャワーの音。昼間から風呂とは菖蒲にしては珍しいが、正直助かったと安堵した。


 足を忍ばせてキッチンへ向かう。

 もし起きたのが気付かれたら、風呂へ誘われるかもしれない。

 以前気まぐれに水責めの真似事をされたこともあったため、彼女がシャワーを浴びるときは寝たふりか気絶したふりをするのが一番だったりする。


 コップに水を入れて、一気に飲み干す。

 思ったよりも喉が渇いていた。熱のせいか汗も酷く、そのせいで体が水を欲していた。

 もう一度コップに水を注いで、また一気飲み。少しだけ体が楽になったような気がした。


 一息吐く。

 飽きたからといって、別にすることもない。ベッドに戻る気はしないし、テレビを付けたら菖蒲に気付かれてしまう。必然的にソファに座って大人しくしているしかなかった。


 ぽすん、とソファに腰掛ける。

 沈み込むくらいにふかふかのソファ———のはずが、異物感があった。


「……ん」


 お尻に何か硬い感触。

 反射的に立ち上がって、それを手に取った。


 慣れ親しんだそれ。

 菖蒲とは同じ機種だと笑い合ったこともある、今一番欲しかったもの。



———電話帳が開かれたままの、菖蒲のスマートフォンだった。


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