第5章 巴と山吹

第46話 兼平

 風が強く吹き、それが余計に冬の寒さを感じさせる。牛が牽く車から降りて馬に乗れば、まともに風を受けて、いっそう寒い。

 しかし巴は、これ以上窮屈な車中にいることを嫌い、春風に乗り換えた。たとえ寒くても、愛馬の背で、景色を見る方が楽しい。さすがに、都のある山城国では、人目を気にして控えていたから、近江国に入ってすぐのことである。

 都を離れると、周囲の景色は一変する。家々はまばらになり、どこまでも田畑が続くかと思えば、深い山に囲まれた道を進む。田畑も山を覆う木々も、既に実りの季節を過ぎ、寒々しい姿を晒している。

「はぐれるなよ、巴」

 周囲の景色に気を取られる巴に、木曽から迎えに来た兼平が、軽口紛れに忠告する。

「腕は、鈍らせておりませぬ故、ご心配なく。それに、春風は賢い馬ですから」

 春風を撫でながら笑顔を返した妹に、兼平は少し驚いた。

 以前の巴ならば、それがどんなに些細なことであっても、兼平の軽口に、向きになって食ってかかった。それを、笑顔で受け流したのだ。

 都での務めは、巴本人にとっても、決して無駄なものではなかったのだと、兼平は嬉しく思う。しかし同時に、ほんの少し、淋しさを感じた。

「少しは、成長したと見える」

「兄様は、相変わらずのご様子ですね」

 巴の嫌みに、やはり勝ち気なところはそのままなのだと、兼平は、何故か安堵を覚えた。

「俺は、これでいいのだ。一人くらい、お前に好き勝手言える人間がいてもいいだろう」

「私に勝手なことを言うのは、兄様ではありませんっ……」

 思わず本音の漏れた巴は、慌てて口を噤んだ。

「だからだ。これ以上は、お前に何も言えなくなるだろう。父上も、山吹殿も……だが、俺は違う。言っておくが、兄者も俺も、この案には未だに反対している。父上とて、快く思ってはおられぬが、他に方法が無いと仰せだ。方法なんぞ、無いと思うから無いだけで、どうとでもなるものだ。しかし、海野殿の、棟梁直々の頼みとあれば、ともかく巴本人に伝えねばならぬ。しかしこんな話、赤の他人から聞くべきではない。せめて身内が伝え、身内が迎えに行くべきだ。だから不本意ながらも兄者が使いとなり、俺が迎えに来たのだ」

 兼平は、胸の内に込み上げる、苦々しい感情を吐き捨てた。

「樋口の兄様は、何も仰いませんでした」

 巴の声に、やや疑いの色が混じる。

「兄者は、お前を周りの意見で惑わせたくなかったのだろう。だから、使いを引き受けられたのだ。俺だとこうして、反対だと言ってしまうからな」

 そう言って兼平が肩をすくめると、巴は春風の歩みを止め、はっきりとした声を出した。

「お心遣い、感謝します。確かに、父上や兄様方のお心を知れば、それに甘えたかもしれませぬ。皆、此度ばかりは勝手だと思います。ですが私は、私自身のために、この話をお受けしたのです。断じて、山吹殿のためでも滋野のためでもなければ、中原のためでもありません。もちろん、冠者殿のためですらありません。正しいのかどうかはわかりませぬが、後悔だけは致しませぬ。ですから、どうかご心配くださいますな」

「そうか……では、俺はもう何も言わぬ。少しばかりではない、随分、成長したな、巴」

 そうして兼平は、幾分、穏やかな表情を見せた。

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