第44話 生母

 翌日になると、摂政基房が襲われた話は、都中を駆け巡った。

 昨日とは打って変わった晴天の下、口さがない都人たちの噂話は、留まるところを知らず、貴賤の隔てなく広がる。

 無礼な武者達に憤って基房に同情する者がいれば、あれは平家の手の者で、七月の事件の報いなれば当然のことと、反論する者もいる。

 あらかた噂が広まった二日後には、内心、平家に反感を持つ貴族達の多くが、次々と基房の元へ見舞いに駆け付けた。

 更に次の日、つまり事件から三日後の二十四日。

 基房が宮中に参内すると、多くの武者達を連れた平重盛もまた、素知らぬ顔で参内していた。何も言わず、常の通り振る舞う重盛は、自分は無関係だと言っているようである。

 しかし、多くの武者を連れている辺り、報復を恐れているようにも見え、また逆に、三日前の件に触れれば、同じ目に遭わせるぞと、暗に脅しているようでもあった。


「上皇様の思し召しでね、御元服について、今日、院御所で話し合われることになったの。だから殿はそちらにお出でで……院蔵人殿にはもちろん、信濃、あなたにも是非、直々に礼をしたいと仰せだったわ」

 松殿を訪れた巴に、按察使はここ数日の様子を語った。

 二十一日に基房が参内しようとしたのは、今上帝の元服の議を決めるためである。それが、摂政である基房が襲われて、参内できなかったために中止となった。

 二十四日になって、ようやく参内した基房の元に、帝の父である後白河院より遣いがあり、帝の元服に関する議定を、自身の御所で行うようにとの指示が下されたのだという。

「それでは、摂政様はこれからますますお忙しくおなりですね。院蔵人殿も私も、当然のことをしたまででございます。そのように思し召し賜り、もったいのうございます」

「お気遣いありがとう、信濃。そうそう、もう一つお願いがあるの。閑院の御方のこと、くれぐれも姫様には内密にね」

「心得ております。あの御方のお気持ちを無にするようなことは申しませぬ」

 按察使は、四条の君を閑院の御方と呼んだ。同じ邸内いる冬姫を憚ったのだ。だから巴も、その名を口にしなかった。

 一介の女房という身分に甘んじながら、側近くで若宮の成長を見守る八条院の若狭と、自身の誇り高い性格を客観的に見つめ、姫の為にこそ離れて暮らすことを選んだ四条の君。対照的に見える二人の女性だが、どちらも自ら産んだ子への愛情に溢れる選択をしている。

 もし今後、以仁王が正妻を迎えても、若狭は八条院に留まるだろうか。謙虚で控えめな若狭ならば、おそらく八条院の女房であり続けるだろう。ただし、その正妻になった女性から妬まれるようなことにでもなれば、一の宮のために、黙って身を引くかもしれない。

 逆にもし、基房に正妻がなかったとして、四条の君は、松殿に残るだろうか。自身が正妻格というならともかく、女房の身分であれば、おそらく松殿を離れるだろう。今と同じように、腹心の按察使を乳母の一人に加え、折に触れ、姫の様子を窺うにとどめるのではないかと思われた。

 それは、二人の異なる選択が、それぞれの性格や立場における、最善のものだからだ。二人とも、曇りのない目と心で、自らの立場と子の将来とを見据えて、選んでいる。

 それぞれの立場ゆえに、思うところが全くないわけではないだろう。しかし、巴の不躾な問いへの答えには、どちらも、自らの選択に対する「後悔」だけは見えなかった。それは、本当の意味で忠節を守るということとは何か、自らの立場を弁えた上で、自分自身のために選択するとはどういうことかを、考えさせるものであった。

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