第40話 陥穽

 一の宮の「弓馬の時間」が終わり、巴は身支度のために与えられている曹司に戻った。着替えようと、身に付けている水干を脱ごうとしたとき、外から半蔀が開かれ、明るい光が入った。

「そちらに、入ってよろしいかしら」

 声を掛けられた巴は、慌てて水干を元に戻して、肯定の返事をする。入って来たのは、侍従と若狭の二人であった。

「信濃殿、ごめんなさい。でも、お見事だったわ。今回は私の負けね」

 侍従は、顔の前で勢いよく手を合わせて頭を下げ、すぐに顔を上げると肩をすくめた。

「本当に、申し訳ありません」

若狭が、今にも消え入りそうな声で詫びた。

「お二方とも、どうなさったのですか」

 謝罪の意味が解らず戸惑う巴に、二人は顔を見合わせ、慌てて事情を付け加える。

「先程の件ですが……私達が仕組んだのです」

「女院様が、あまりに信濃殿をお気に召すものだから、皆様妬まれて……」


 二人が代わる代わる釈明するには、八条院の覚えめでたい巴を妬んだ女房達が、御前で恥をかかせようと企んだのだという。

 命婦のおもとの世話係である若狭が、あえて、鬼丸の近くで遊ばせる。そこに、鬼丸が最も気に入っている人物、以仁王にお出で頂き、鬼丸ではなく命婦のおもとを構って頂く。鬼丸が、自分と遊んで欲しいと、以仁王に向かって鳴き、それに驚いた命婦のおもとを、八条院の御前に放ったのだという。

 そして侍従が『枕草子』の話を出し、皆で頷く。狩や武芸の話が多い巴が、『枕草子』を読んでいるなど、思いもしなかったらしい。

 この策を考えたのは、加賀を始めとする一の宮付きの女房達で、若狭と侍従が実行役を言いつかったとのことである。


 馬場殿といい八条院といい、暇な女房が多すぎる。

 しかも、馬場殿では皆あからさまな態度を見せていたけれど、八条院の女房達は違う。 曹司にあっても常に愛想良く、主の前となれば、当然、妬み嫉みといった感情など、一切表に出さない。優雅な微笑みを湛えたまま、こうして挑戦を仕掛けたのだ。

 巴は少々気落ちしながらも、自身の甘さを悔やんだ。身分が格下の自分を、表面上であったとはいえ、あまりにあっさりと、快く受け入れた院女房達。その裏をこそ、疑うべきであったのだ。

「お知らせくださり、ありがとうございます。全く気付きませんでした」

 それでも巴は、知らせてくれた二人の気持ちを嬉しく思い、丁寧に礼を述べた。

「ありがとう、そう言って頂けて安心したわ。本当なら、すぐに私が同じ台詞を言うはずだったのよ。でも、やっぱり人を陥れるなんて気が進まなくて……」

「信濃殿、どうかこれに懲りず、若宮様のこと、何卒よろしくお願い申し上げます」

 侍従が晴れやかな笑顔を見せ、若狭が深く頭を下げた。

「若宮様とは……」

「一の宮様のことよ、信濃殿は知らなくて当然ね。そうね……お詫びと言っては何だけど、こっそり教えてあげる。いいわよね、若狭殿」

「ええ、信濃殿にでしたら。ただ、くれぐれも、若宮様にはご内密にお願いいたしまする」


  そうして侍従は声を潜め、この若狭こそ一の宮の生母なのだと告げた。

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