第39話 清女

 巴は、どうにか言葉を捻り出し、いかにも、自然に出た言葉であるかのように微笑んだ。周りに小さな歓声が沸く中、一人の女房が複雑な表情を見せる。

 物語が好きな侍従だ。

「先を越されてしまいましたね、侍従殿」

「いつもなら、真っ先に気の利いたことをするのに」

 女房仲間にからかわれた侍従は、すました顔で答える。

「『枕草子』は、物語ではありませんから」

「侍従、負け惜しみはみっともないのう。ここは、鬼丸から飛び掛かったわけではなくてよかったとでも、言っておけばよかろう」

 命婦のおもとを撫でながら、八条院が呆れ顔で窘めた。


 百七十年前、一条帝の御代。帝に可愛がられ大切にされた一匹の仔猫がいた。その仔猫の名が「命婦のおもと」であった。

 命婦とは本来、五位に叙せられた女性のことである。帝の御所清涼殿に上がるには、五位(帝の身辺の世話をする蔵人に限り六位)の位階が必要で、その仔猫も五位に叙せられていたのである。

 命婦のおもとが廂で寝ていると、乳母つまり世話係の女房が、姫として扱い、行儀が悪いから御簾の中に入るように言った。しかし、命婦のおもとは猫である。言うことを聞かず、知らぬ振りをして寝たままである。

 そこで世話係の女房は、命婦のおもとを驚かせようとした。内裏で飼われていた翁丸という犬を呼び、命婦のおもとを噛むように、戯れに命じたのである。

 これを真に受けたのが翁丸である。翁丸が飛び掛かると、流石に命婦のおもとは怯え、慌てて御簾の中に逃げ込んだ。

 しかし折悪しく、その一部始終を、一条帝がご覧になった。

 命婦のおもとを懐に入れて蔵人を呼ぶと、翁丸を打ち懲らしめて流罪にするよう命じ、女房も世話係から外された。

 数日後の昼、犬の激しい鳴き声がした。それは流罪となった翁丸で、戻ってきたからと、再び蔵人達に打たれていたのだ。そうして動かなくなった翁丸は、門の外へと出された。

 同じ日の夕方。酷く怪我をした犬が現れた。翁丸かと思って呼んでも返事をせず、食事にも口をつけない。それで皆は、違う犬だと考えた。

 翌朝、庭の柱元にその犬を見つけた女房が、翁丸を悼む言葉を口にする。すると、柱元の犬が震えて、涙を零した。だから、その犬は翁丸に違いないと、皆が喜んだ。後に翁丸は、許されて元の身分に戻ったのだ。

 これが、『枕草子』に記された、「命婦のおもと」という猫と、「翁丸」という犬の間に起きた事件である。記したのは、一条帝の皇后藤原定子に仕えた女房で、翁丸を悼む言葉を口にした当人でもある、清原元輔の娘少納言。

 清少納言の名が、後世に知られている。

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