第36話 若宮

「信濃、面を上げよ。もっと近う」

 八条院の、ゆったりと鷹揚な声が聞こえ、巴は頭を垂れたまま上目遣いに仲家を見る。仲家が軽く頷くのを認めると、巴は顔を上げ、一歩だけ膝行した。

 その時であった。床まで降りた御簾が、急にふわりと上がった。

 移菊の裾と、濃い紫の指貫が垣間見える。白菊の花弁の先が紫がかる様子を模し、表側の紫から徐々に白へと変化する五衣の下に、青の単衣を合わせる移菊の襲。落ち着いて品があり、成熟した女性を思わせる。

 今年三十四を数えるという暲子内親王に、さぞかしよく似合うことだろう。一方の濃い紫の指貫は若さを象徴し、若年から三十くらいまでの色とされる。二十になる以仁王に、ちょうど似合う色である。

 御簾の中から、一人の童子が現れた。角髪に結われた髪に、裾が短く半尻とも言われる童狩衣を身に纏っている。

「信濃とやら、見事であった。我にも、教えてくれぬか」

 童子が、簀子の仲家ではなく、庭に控える巴に声を掛ける。その背後に、慌てた様子の女房が現れた。女房は童子を諭し、それ以上前へ出ないよう後ろから引き止める。

「一の宮様、お戻りくださいませ」

 巴は、答えるべきかどうか迷う。「一の宮様」と呼ばれた童子は、松殿の冬姫より一つ二つ上に見える。冬姫が四歳になるから、五歳か六歳といったところであろう。

 この場で一の宮と呼ばれるのは、以仁王の王子をおいて他にはいない。いくら童子とはいえ、無位無冠の巴が、口をきける相手ではないのだ。

「それは、よろしいかもしれませぬ、女院様さえお許し頂ければ、是非ともお願いしたい」

 一瞬の沈黙を破ったのは、以仁王であった。八条院が以仁王に同調し、言葉を続ける。

「確かに。一の宮にはそなた同様、弓馬を習わせたいと考えておる。しかし近頃は、兵士を集めるだけで、六波羅の辺りが煩いからのう。信濃ならば女房と言えば済む話で、こちらとしても好都合じゃ。もちろん、女房として出仕せよ、という話ではない。蔵人が出仕する際に、同行すればよい。どうじゃ信濃、直答を許す」

「誠にありがたき仰せではございまするが……畏れながら、私などに、そのような大役はもったいのうございます」

 巴は、思いがけない話に恐縮する。官位は低くとも名の通った武将というならまだしも、地方豪族の娘が、宮家の男子に弓馬を教えるなど、考えられる事ではなかった。

「そう謙遜してくれるな。弓馬の道は名人に習う方が格段に上達する……よろしく、頼む」

 以仁王が、御簾の中から現れ、簀子まで降りて頭を下げた。慌てて仲家が庭に降りる。

「後のことは、加賀に任せる故。よしなにな」

 御簾の向こうから八条院が、一の宮を抱えたままの女房に声を掛けた。

「かしこまりましてございます」

 加賀と呼ばれた女房が御簾の向こうに頭を下げると、衣擦れの音が聞こえ、八条院が退出したのだとわかる。

「一の宮様の乳母を務めさせて頂いております、加賀と申します。信濃殿、一の宮様の御事、なにとぞよろしくお願い申し上げまする」

 加賀は一の宮を抱いたまま、雅な仕草で名乗った。そして、庭に控える巴に対し、深く頭を下げた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます