第4章 二人の生母

第35話 女院

 身体が、微かに震える。

 視線の焦点を合わせ、両腕を顔の高さまで上げる。

 目を閉じ、心中に湧き上がる不安や誇りといった、様々な雑念を振り払う。

 無心になり、腕の震えが止まる。

 その瞬間、目を見開くと同時に、右肘を張って腕を後ろに引き、左腕を真っ直ぐ前に伸ばす。


 右手を開く。

 一本の矢が放たれた。

 歓声が湧く。


 矢は、二十七丈五尺先の的の、ちょうど真ん中を射抜いた。続けて九本の矢を放つ。次々と的に中たり、最初の一本を囲むように、綺麗な円を描いた。


「これは見事。女子の身で斯様に腕が立つとは、源蔵人殿は良き女房を得られたのう」

 御簾の向こうから、ゆったりとしてよく通る女性の声が聞こえる。巴は、予め教えられた通り素早く、声が聞こえた殿舎の階の前に跪いた。

「誠に、馬場殿が羨ましい。ますます頼もしく思うぞ」

 次に聞こえたのは、若々しく豪快な、男性の声であった。

「畏れ多くも、八条院様、高倉宮様には、お褒めに与り勿体のう存じ奉ります」

 簀子縁に控える仲家が、体の向きを御簾の方へ変え、頭を下げる。


 松殿への訪問から数ヶ月経ったある日、巴は八条院の弓場にいた。

 蔵人として出仕する仲家から、供を命じられたのだ。八条院暲子内親王は鳥羽帝の皇女で、父帝が退位後に寵愛した美福門院得子を母として産まれた。夭折した近衛帝の同母姉である。幼い頃より父母の鍾愛を受けて育ち、多くの荘園を受け継いでいる。その財力を背景に、都において隠然たる力を持つとも言われている。

 高倉宮は、八条院の異母兄後白河院の皇子で、名を以仁王という。幼くして仏門に入ったが、師が亡くなったのを機に還俗。馬場殿にも近い大宮御所で元服し、その後八条院に引き取られて猶子となった。

 その八条院が、一介のそれも家臣の家の女房に過ぎぬ巴に興味を示した。


 理由は、弓馬の腕である。

 巴は、仲家に腕と髪を見られて以来、馬場殿の郎等達に混じっての稽古を許された。初めは皆、巴の腕がどれほどなのかと、興味本位だった。

 仲家でさえ、郎等達に付いてこられれば大したものという程度にしか、期待していなかったのだ。

 しかし巴は、郎等達、中でも一位二位争う者達にも引けを取らぬ腕前を見せた。地上での歩射はもちろん、馬上から射る騎射も、充分に通用したのだ。

 仲家より巴の話を聞いた八条院は面白がり、是非自分の目の前でその腕を見せるように命じた。ただ、八条院には充分な馬場がないため、歩射を行うことになったのだ。

 八条院にとって、男子並みに弓馬に優れる女子など、未知の存在である。

 だが八条院は、同母弟近衛帝が崩御し、父である鳥羽院より、次の帝にと推された経験を持つ。崩御した近衛帝は十七歳、八条院は十九歳を数えていた。結局次の帝に立ったのは、異母兄の後白河帝であった。院となった今、八条院と良好な関係にあるとはいえ、当時のことを思い返せば、多少なりとも複雑な心境が残る。

 だからこそ八条院は、男子並みの腕を持つ女子の存在に、興味をそそられたのであろう。

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