第33話 冬姫

「あぜち、こっちにいたのね」

 小さな足音と同時に軽い衣ずれの音がして、幼い少女が顔を出した。

「冬姫様、手習いは終わられましたか」

「ええ、そうよ。おことのせんせいはまだだから、あぜちをさがしていたの」

「それは、申し訳ございませんでした」

「あぜちは、おきゃくさまのおあいてだからだめっていわれたけど、これをみてほしくて」

 小さな手が、握っていた料紙を広げる。まだ稚いながらも、形の整った仮名文字が並んでいる。

「まあ、とても綺麗に書けましたね」

 按察使がその頭を優しく撫でると、冬姫と呼ばれた少女は輝くような笑顔を見せた。十年も経てば、さぞ美しく成長するであろう。

 冬姫は、摂政藤原基房の娘で、今年四歳を数える。正室腹ではないが初めての女子であったため、当代一の后がねとして、本邸に引き取られた。乳母の按察使が、巴の母の知己である。元々は冬姫の生母に仕えていたが、冬姫が松殿に引き取られる際、我が子を思う生母の頼みで、冬姫に従って松殿に移ったのだ。


 御簾の向こうから、人の近付く気配があった。

 按察使の指示で、巴は慌てて簀子縁に下がって頭を下げる。按察使も、冬姫を几帳の陰に隠すと、巴と同じように簀子縁に控えた。

「我らが姪御殿に、変わりはござりませぬか」

「兄上があの有様故、心配しておりますぞ」

 頭を下げたまま視線だけわずかに上げると、濃い紫の指貫と、白い衣の裾が見える。巴は、尊大だが鷹揚な口調とその言葉から、二人が主筋の人間だと察した。

「これは右府様、阿闍梨様、お越し頂き忝のう存じます。冬姫様にはこの通り、お健やかにお過ごしであらしゃいます」

「うむ、按察使も息災そうで何よりじゃ。して、そちらの客人は」

「馬場殿の信濃と申す者にて、私めが旧友の娘でございます。本日、当家に馬場殿より寄進がございました故、同行した由にござります」

「信濃とやら、顔を上げよ」

「右京権大夫源頼政が家人、信濃と申します。按察使殿には、日頃より何かとお気遣い頂き、大変ありがたく存じまする」

 按察使に紹介された巴が顔を上げる。

「ほう、するとそなたが、按察使が馬場殿に紹介した女房殿か」

 僧形の人物は、巴とさほど歳が変わらないようであった。

 話し方こそ大人びているが、表情には、微かに少年らしさが残っている。僧形である以上、彼が阿闍梨の方であろう。基房の兄弟なら異母弟の道快ということになる。幼少時に青連院に入って僧籍となり、天台座主明雲に戒を受けている。

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