第31話 仲家

「弟からか」

 ふいに、巴の目の前から文が消えた。文の行方を追って顔を上げると、八条院に蔵人として仕えるこの家の猶子、源仲家の姿があった。目元の涼やかな、優しげな容貌だが、その体躯は逞しく鍛えられ、偉丈夫というに相応しい。

「院蔵人殿……お返し下さいませ。それは従姉妹からでございます」

 仲家の手にある文は、立ち上がってそれを取り返そうと伸ばした巴の手を、すり抜ける。

「何だ。信州から遣いが来たというから期待したのだが……我が弟殿は、文も寄越さぬ薄情者と見える。どうだ信濃、そんな薄情者のことは忘れて、この際、俺に乗り換えぬか。どうせ、当分あちらには帰らぬのだろう」

「おやめ下さいっ」

 仲家の手が頬に触れ、巴は思わず、振り払った。加減を忘れた巴の腕は、手を払うばかりか、相手を、簀子縁まで転がした。

 巴は、慌てて頭を床に擦り付け、無礼を詫びる。

「も、申し訳ございません。されど私が、院蔵人殿のお情けを頂戴するわけには参りませぬ。どうか、ご容赦下さいませ」

 巴が頭を下げると同時に、髪の毛先が、床に落ちる。

「ほう、女子にしては勇ましいな」

 仲家は、巴の無礼を咎めようとはせず、意外な力に感心して口の端を上げた。

 しかし一瞬の後、表情が僅かに険しくなる。やはり気分を害したのかと巴は身を固くするが、仲家の視線はその左手に向けられた。

 転んだ拍子に掴んだのであろう、豊かな黒髪の一部が握られている。巴は慌てて、背中を探った。床に流れる程長いはずの髪が、肩を過ぎた辺りで途切れている。

 仲家の右手が、巴の袖を引き上げる。鍛え抜かれたその腕が、露わになった。

「なかなか、鍛えているようではないか。武人の腕に、尼のように短い髪とは……信濃とは、愛を語らうより、弓矢の手合わせを願うか、遠駆けにでも出掛ける方が、よいかもしれぬな」

 弓馬の道に勤しむ巴の髪は、男子ほどに短い。しかしそれは、女子には「有髪の尼」の髪である。出家した主に従ったというならともかく、新参女房としては体裁が整わない。そもそも巴の場合、得度したわけではないのだ。

 だから、髢を付けて人並みの長さに見せかけている。


 そこへ宮菊が現れ、仲家の袖を掴んだ。

「兄上、何をしておいでです。信濃は私の女房です、兄上には渡しませんからね」

「わかった、わかったから。宮菊、袖を離してくれ」

「信濃に手を出さぬとお誓い下さい。信濃を困らせたら、兄上といえど承知しません」

「宮菊といい、信濃といい……遊び心がわからぬとは……ほんの戯れだというに」

 巴が仕える宮菊は、仲家の異母妹であり、二人の父は源義賢である。つまり二人は、義仲の兄妹ということになる。義賢がその甥義平の襲撃を受けた時、義仲と宮菊は、武蔵大蔵の館に、父母と共にあった。

 当時駒王丸と呼ばれていた義仲は、母である小枝の君に連れられて木曽へ落ち延びたが、乳飲み子であった宮菊は乳母夫妻に連れられて都へ逃れた。

 義賢の正妻と共に都にいた嫡男は、この邸に保護され、元服して仲家と名乗った。後に、異母兄の消息を知った宮菊が、乳母夫妻と共に名乗り出て、共にこの邸の猶子となったのだ。


「これはこれは、若い者が多いと賑やかで良いのう」

「おかえりなさいませ」

 邸の主が帰宅し、三人の声が重なってそれぞれに礼をとった。

 歌人として名高く、穏やかな表情を見せる主の名は、源頼政。その実、二度の戦乱を勝ち残った強者であり、帝を悩ませた化物鵺を、近衛帝と二条帝の御代にそれぞれ一度、二度も退治したと言われている。

 もっとも、頼政が鵺退治の手柄をひけらかすことはなく、尋ねられても、詳しく語ろうとはしない。

「信濃。中三殿の心遣い、この頼政、深く痛み入りますぞ」

 頼政は、女房に過ぎない巴に、丁寧に礼を述べた。

 中三とは、中原氏の先代の三男であった巴の父、兼遠を指す。信濃では、先代を直接知る人が少なく、この呼び名を使う者はいないが、都では、兼遠を知る人は大抵こう呼ぶのだ。

「も、もったいないお言葉、恐縮にございます」

「それでな、近々御摂禄の辺りにも献上しようと思うておる。ことはついでじゃ、信濃も供をして、姫君の乳母殿に会うてくるがよい」

「ははっ、有り難く存じます」

 巴は、頼政の気遣いに感謝し、深く頭を下げた。

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