第29話 信救

 巴は、父兼遠が最後に就いた官職である信濃権守から「信濃」と呼ばれている。

 女房仕えは、予想していた以上に苦労が多い。木曽では、弓矢を手にし、馬を乗りこなしても、貶す人などいなかった。父や兄達から呆れられはしたけれど、それ以上に、自分の上達を喜んでもくれていた。

 主家が武門ということもあり、幸い、春風を伴うことは許されたが、女が馬に乗るなど言語道断。厩への出入りも、あまりいい顔をされない。

 弓矢の稽古は、腕を鈍らせない程度に、夜が明けきらぬ頃、人目を忍んで行っている。邸の奥で北の方や姫君に伺候し、家人や下男に用があれば、御簾越しか扇越しに会話を交わさなければいけないのだ。

 木曽の山野を、義仲や兄弟達と共に愛馬の背に乗って駆け巡っていた巴に、都での暮らしは、窮屈この上ない。


 しかし巴は、自分が信濃にいてはいけないと思った。

 山吹が辞退したことで、唐糸が現れて義仲に近付いた。唐糸ほど有力ではないが、他にも幾人か、候補となる娘達の名が挙がった。

 唐糸や他の娘達が義仲の側に上がり、最初に男子に恵まれれば、彼女達の実家が、棟梁海野を凌ぐ発言力を持つことになる。

 ただでさえ、幸親は都から来た入り婿で、先代の威光と、幸親自身の細かな気遣いによって、今の滋野が成り立っているのだ。

 もし、その均衡が崩れた挙句、諏訪の棟梁である金刺氏の娘胡蝶が義仲に娶せる、諏訪に利するばかりとなる。

 それだけは、どうしても避けなければいけなかった。


 山吹は、他の娘達の名が上がってもなお、辞退を撤回しようとはしなかった。だから巴は、自分が都に行こうと考えた。自分が居なくなれば、山吹にも選択肢が無くなるだろうと思ったのだ。

 さすがの山吹も、どんな理由があろうと、唐糸や他の娘達にまで、義仲との話を譲るとは思えない。そうでなければ、あれほど執拗に巴を問い詰めた理由がわからなくなる。

 だから、二人にとってはもちろん、滋野にとっても、最もいい方法だと思った。


 ちょうど一年前であった、母の知己という人からの文が届いたのは。

 それは、都のさる邸で女房を探しているという内容で、その家の娘と歳の近いはずの巴に、是非、来て欲しいという誘いだった。

 母の知己に会いたいと思い、また、文に書かれた人物の知遇を得る事は、いずれ義仲や滋野の為になるはずであった。

 しかし巴は、義仲の側を離れることを躊躇った。

 躊躇い、結局は断ろうと思っていた。

 けれども、そう返事をする前に、義仲の側にはいられなくなってしまったのだ。だから巴は、どうせ信濃を離れるのならば、上洛しようと決めたのだ。


「ですが私には、他に道はありませんでした。それにこの上洛は、冠者殿の御為、そして滋野にも利のあること。こうして上洛した以上は、水が合わぬからといって、やすやすとは故郷に帰れぬと思っております」

 巴は、自らに言い聞かせるように言葉をしぼり出す。巴の心中を知ってか知らずか、信救は深く頷いた。

「これは頼もしい。藤原の家の養子となり、今では出家した身ですが、身内には変りありませぬ。微力ながらお手伝い致します故、何でも、遠慮なく言って下され。それと、先日の歌、中々に見事であられました。お相手がお相手故、南都にも聞こえてきましたぞ」

「ありがとうございます。それこそ山吹殿のお陰です。歌など詠んだことはありませぬが、幼い頃は山吹殿に誘われ、『在五中将』に『大和』、『源氏』など読んだものです。山吹殿に誘って頂かなければ、物語を読む機会などありませんでしたから」

 巴は、自分自身の中にある山吹に対する感情が、木曽にいた頃よりも、幾分、穏やかなものになっていると気付いた。巴がどれだけ欲しても得られぬものを持ちながら、何かと突っ掛る従姉妹を、多少なりとも、疎ましく思う気持ちがなかったわけではない。

 けれどもこうして離れてみれば、思い出すのは幼い頃の楽しかった日々ばかり。思えば、山吹に付き合って遊ぶのは、館の中であった。それを、窮屈とも不自由とも感じたことはなかったと、巴は、今になって思い返していた。

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