第28話 来客

 しばらく後、信濃に来客があった。客人は僧形であった。相変わらず、先輩女房達の嫌味に晒されていた信濃には、逃れるには好都合とすぐ対面に応じた。僧は、南都興福寺の最乗房信救と名乗った。

「巴殿。いや失礼、こちらでは信濃殿であられたか。お久しゅうございます」

「巴、で構いませぬ。故郷に縁の方なれば、そう呼んで頂ければ嬉しく存じます。信救殿のお噂はかねがね伺っておりましたが……失礼ながら、以前にお会いしたことが……」

「いやいや覚えておられぬも道理。私が信州を出たのは、十四年も前ですからな。保元元年、いや、確か三月であった故、まだ久寿三年、十三の歳でした。巴殿は、ようやく乳母の手を取って歩かれる頃、妹の山吹などは、未だ乳飲み子でした」

 巴が困惑しながら返事をすると、御簾越しに信救が忍び笑いを浮かべたのがわかった。つられて巴も、笑いを零す。

 気にしないことにしているとはいえ、心ない先輩女房達の嫌味に、少しばかり鬱々としていた気持ちが、紛れていく。

「それでは、山吹殿も私もようやく二歳を数える頃……」

 巴と山吹は、共に久寿二(一一五五)年の産まれだが、巴は一月、山吹は十二月に産まれている。それも巴は、その前年に産まれる予定が、数日延びて正月になった。逆に山吹は、翌年の正月早々に産まれる予定が、数日早まったのだ。

「二人とも、本当に愛らしかった。都の進んだ学問を、それも恵まれた環境で学べるとあって、上洛を楽しみにしていたんですがね……あどけない従妹や妹の顔を見て、二人が美しく成長する姿を見られないのが心残りだと、かなり本気で、都行きを後悔したものです。しかも、都に着いて間もなく、鳥羽の院が崩御され、あのような乱が……その折りに冠者殿の祖父君も……おおっ、これは喋り過ぎました」

 口を滑らせた信救は周囲を覗い、人の気配がないのを認めると、安堵の表情を浮かべた。巴が仕えるこの家の主は、信救が口にしかけた保元の乱で、義仲の祖父源為義と敵対している。

 最乗房信救は、元の名を海野幸長と言い、幸親の次男である。だから巴には従兄、山吹には次兄に当たる。幼い頃より秀才の誉れ高く、幸親や兄の幸広はもとより兼遠や兼光までもが、折に触れてはよく名前を出していた。

 元服した際、幸長の名を与えられたが、当時の信濃守であった藤原行道に見込まれその縁者の養子となった。藤原道広と名を変えた後、藤原氏の大学別曹勧学院に寄宿して大学寮に学んだ。

 出仕して六位蔵人を務めていたが、養父に実子が授かって元服したのを機に、元より志のあった僧籍に入ったのだ。

「巴殿にだけでも、こうしてお会いできるとは、嬉しい限りです。しかし、お邸でのご奉公は、ご苦労が多いようですな。こちらまで、よく聞こえましたもので」

「お恥ずかしいところを……申し訳ありませぬ。何もかもが木曽とは違い、戸惑うばかりです」

「成程、私にも覚えがあります。それでも学問に専念できることが嬉しく、気になりませんでしたが……男というのもあったのでしょうな。女性の身では、さぞ大変と存じます」

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