第24話 彩女

 ふいに、春風の歩みが止まった。

 気がつけば景色は、平野から山中に変わっている。正面を見据えたまま一歩も動こうとしなくなった愛馬の様子から、巴は何らかの気配があることを察した。

 春風の背から降りて周囲を窺うと、微かに、生木から水分の抜ける独特の匂いが鼻孔をくすぐる。それでこの先に、炭焼き小屋があるのだとわかった。巴は春風を宥めながら牽き、匂いの元へ近付いた。


「あれ。誰かと思えば、巴様でねえか。お久しゅうごぜえます」

 傍らに積まれた薪を火をくべていた女が、驚きと共に、大きく頭を下げる。麻の小袖に、褶を巻いたその女は、顔を煤で汚してはいるが目鼻立ちの整った美人で、その表情は愛嬌に満ち、心からの笑顔を見せる。

 懐かしい顔に、巴もまた、思わず顔を綻ばせた。

「彩女……久しいな、もう一年になるか」

「その節は、巴様にもお心遣いを頂き、ありがとうごぜえました」

「なに、大したことはできなかったんだ、気にしないでくれ」

 彩女は、木曽の屋敷に仕える夫婦の娘で、巴の身の回りの用を務めていた。年が近く、幼い頃から共に過ごした巴にとっては、信の置ける相手である。

 昨年の春過ぎに、領内の男に縁付いていた。領内の男、とはいえ、相手は代々海野に仕える家の庶子で、当人は、兼遠の家臣に仕えている。

「彩女が炭焼きとは、珍しいな」

「祖父が腰を痛めて、その代わりでごぜえます。私や母が人を頼めばええと言うても、自分でやると、どうしても聞かないもんで。うちの人が代わると言うてくれて、ようやく、大人しゅうなりました。直に、二人でお屋敷に伺わせて頂きますんで」

 言われて巴は、彩女の母方の祖父という人が、毎年、炭を木曽の屋敷に運んでいたことを思い出す。身体が大きく頑強で、いかにも頑固そうな顔をした老人で、子供心には怖かったものだ。

 義仲や二人の兄達と共に悪戯をすれば、主の子だろうと、容赦なく叱りつけられた。それでも、彩女を見る時には目尻が下がり、それで共にいた巴も、その人が厳しいけれども怖い人ではないと、安心できたのだ。

 もっとも今になって思えば、彩女の祖父こそ、孫娘が領主の娘である自分に粗相でもしないかと、肝を冷やしていたのかもしれない。

「そうか、それは楽しみだ。確か、楢丸と言ったか……」

 巴が相手の名を口にした時、ちょうど、切り出したばかりの薪を背負った男が小屋の裏手から現れた。

 萎烏帽子を被り、麻の直垂に括袴、脛巾を着けたその男は、巴の姿を見るなり、地に伏した。

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