第26話 面倒な女には真っ向から言葉を

 だからその女が唐突に子供の側に出現した時の驚きは皆隠せなかった。

 乳母のエガナは立ち上がりさっと寝台から赤子を抱き上げ「だ、誰です貴女は」と大きな声で叫んだ。


「誰? 誰とは失礼な」


 あはは、と声を立てて笑い、ふらりと首を傾げると、ちら、と視線を赤子に移す。


「祖母が孫の顔を見に来たとして何が悪い?」

「孫……?」

「さあ見せてみい」


 近寄ってくるその声にエガナは腹の底から恐怖した。困る。嫌だ。なのに何だ。この底知れぬ、強制感は。

 だが彼女は根っからの母だった。乳母―――代理の母として、絶対にこの訳の分からないことを言う若い女に皇太子を渡してはならない、と思った。

 その思いが腕に力を込めたか、赤子がびく、と震え、やがて大声を泣き始めた。


「―――皇子!」


 まず部屋に飛び込んできたのはすぐ側の部屋で茶の用意をしていたサボンだった。

 エガナは大きく首を横に振るが、まるで身動きが取れない様に―――見えた。


「誰ですか貴女は」

「……こちらこそ問いたい。誰だお前は」

「人に名前を問うならまず名乗ってください!」


 ほう、と相手の眉が上がる。だが何だろう。サボンはその相手の顔を眺めているうちに、何となく視線を逸らしたくなっている自分に気付いていた。


「サボン!」


 次に飛び込んできたのはフヨウだった。


「―――太后さま」

「久しいなアイ

「え? この方が太后さまって?」


 サボンの視線は二人の間を往復する。

 大きなマントの下、濃い栗色の長いふわりとした髪を肩の下でふわりとまとめ、袖無しの胴着に長棒を持つ、自分より少しだけ年かさに見える女―――


「あ…… あの…… 本当に?」


 エガナはがたがたと震えながら、それでも赤子を離すことはない。それはもう彼女の本能と言ってもよかった。

 いくら太后だと言われても危険は危険。母親というものを長くやってきた彼女にとって、目の前の女は危険な者にしか見えなかった。


「残念ながら、本当だ」


 ダリヤが外につながる戸を開けて入ってきた。固まっているエガナの背を支え、そのままアリカの居る奥へと押し込んでやる。


「……また貴女さまですか。ダリヤ様」

「また、だよイチヤ。どうにもお前が行くところ行くところ、騒ぎが起きるんでな。それがいい方に回りそうなら放っておくし、まずそうなら先回りするさ」

「いつも思いますが、よく判りますねえ」

「年の功さ。百歳が多くお前より生きているんだ。当然だろう?」


 うわ、とサボンは二人の話の間にびりびりと伝わる棘の様なものに背筋が凍る思いだった。

 それはフヨウも同様、いやサボン以上に恐れているかのようだった。


「まあいいですよ。ところで私の息子は何だか出かけてる様ですね。いつもいつも会おうとすると貴女が邪魔なさる。本当に嫌なお方だ」

「当人が会いたくないと言っているんだ。仕方ないだろう。私はただその手助けをしているだけだ」

「親不孝な息子だ全く」


 あははは、とイチヤは笑う。だが目が笑っていない。そもそもそこは笑うところか、とサボンは感じる。


「藍?」

「は、はい」

「どうやらお前、何やら別の名を付けられたようだな」

「……」

「このひとは!」

「女、余計な口を聞くな」


 唇に亀裂が走ったかと思った。痛い。思わず手を口に当てる。

 だが血は出ていない。切れてはいない。

 そうか、アリカがフヨウに言葉で押さえつけたあれと同じなんだ。サボンは思う。だったら言うことはできるはず!


「このひとはフヨウさんです! 私の同僚の! 藍さんではないです! 今は!」

 自分でもびっくりする様な大声が出た。ほぉ、とダリヤの口元が緩むのが見えた。

「珍しいだろう? お前の声に屈しないぞ、今の皇后の護りは」

「……命惜しさに自分の身分も捨てた娘が!」

 

 うわあ、とサボンは自分の口元が引きつるのを覚えた。そしてやはり何処かその相手の顔から目を常に逸らしたくなる衝動に駆られる。もしかしてこのせいか? フヨウがこの太后の顔を思い出せない、というのは。

 姿形は明確だ。だが顔だけが。その目の持つ表情が全くもって受け取ることができない。

 サボンはとりあえずフヨウの肩を抱く。想像以上に彼女は太后の存在に怯えている様だから。


「陛下は、お母上をお迎えに参りました」


 閉じた扉の向こうから、いつの間に出てきたのだろう。アリカは静かにそう言った。


「陛下」

「お前が今度の皇后になった女か」

「はい」


 扉を背に、アリカは静かに答える。


「貧乏くじを引かされたのだな。この臆病な女に」

「貧乏くじ?」


 アリカは軽く首を傾げて口元を上げた。


「そんなことどうして思いましょう?」

「そこの娘の代わりにバケモノになったことを酷いと思わないのか?」

「特には」


 短い答え。それ以上言うことはない、とサボンには聞こえた。


「お主とは違うのだ」

「確かに違う。私はこんなものになりたくはなかった」

「ですがそのなりたくなかったものの力でもって、今フヨウを押さえつけようとしましたね」


 一歩、アリカは踏み出す。


「―――ああ、そういうことですか」

「何だ」

「貴女様のお顔をいつも思い出せないと、フヨウも、その下の者も言うものですから、ダリヤ様もそうではないですか?」

「え」


 唐突に振られた話題の中身に、さすがにダリヤも一瞬何を問われているのか判らなかった。

 つ、とアリカはイチヤの眼前まで手を伸ばした。


「何をする!」


 払おうとした手が空を切る。


「お会いして判りました。貴女のお顔は、もの凄く微妙に左右の目、瞼、眉、それに鼻と口、骨格がきっかり合った比率と一致しないんですね」

「……な」

「こうあるべき比率に近すぎるのに、そうでない。そういうものは認識しそうになっても何処かで忘れる。貴女の顔はその集合体なのですね」

「し…… つれいな…… 顔のこと?! お前は一体」

「数字をもって説明すれば良いですか?」


 淡々と、ただ淡々とアリカは続ける。


「それに何も、貴女が今の基準に照らし合わせて不美人であるとは言っておりません。むしろ美人の方だと思いますが」


 サボンは聞いていてだんだん冷や汗をかいてくる自分に気付いていた。

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