第36話 こういう時にこそ彼に会いたいサボン

 実際のところ、サボンがアリカに頼まれてやっている「初めてのこと」はなかなかに多かった。

 「九九」もそうだし、カリョンにせっつかれてまた必死で編み方を教えた鉤長棒や長い複数の棒で編む方法、そしてまたそれを応用する方法……

 ともかくアリカは「普通の人」の基準をサボンに置いて試しているのである。


「カリョンさんに毎度私せっつかれるんですけど」

「悪いとは思ってるんですけど」

「他の人ではいけないの?」

「あなたがもっと女官としてもの凄い才能を示してしまった…… とかだと頼まなくなりますが……」

「複雑な気分なんだけど」

「ともかく貴女が一番適しているんですよ」


 そう言われたら断る理由もない。実際、「九九」を覚えさせられたことで、相当計算が速くなったことは事実だ。算盤が無くとも数桁の乗除算ができるというのは強い。とは言え、あくまでアリカ付きの女官である以上、他の部署での計算はしたことが無いのだが。

 ただこういうことはあった。

 外でリョセンと一緒に菓子を買いに出た時である。何だかんだで沢山彼等は細かく買ってきたのだが、そこで全部で幾ら掛かったかを一旦外で計算した。

 その時に紙の上でサボンがさっと答えを出したのは、相当彼を驚かせたのだ。

 リョセンは「何連隊の何人が負傷したことでどれだけの人員を補充すればいいのか」や、「その場に居る羊の遠くからの大まかな数え方」等の実地での数には強かったが、金勘定には正直弱かった。サボンからすれば、彼が驚いたことの方が驚きだったのだが。


「ともかくこれで草原にもある程度編み物が伝わるということです」

「では次は何を?」


 さすがに最近させられている計算だの調べ書きだのを思い返せば、サボンもアリカが次のことをし始めたいのだ、ということに気付いている。


「これ」


 アリカは筆を取り上げる。


「筆がどうしたの?」

「あなた計算する時、いちいち墨をつけなくてはならないということを時々面倒だと思ってません?」

「……ご名答」

「だからそう面倒でないものを、技術方に作ってもらおうと思って。急いでいても軽い力でさらさらと紙に書き付けることができるものなんですが」

「厨房では時々木炭で書いてるひとがいるけど」

「それだけと手が真っ黒になりますし、ちょうどいい形が揃ってるとも限らないですよね。それに何と言っても、木炭は粉が散ります」

「石盤じゃいけないのかしら」

「あれは消えますからね…… 消えないもので、筆程に取り扱いが面倒ではないもの」

「リョセン様達の故郷では、鳥の大きな羽根の先を割って、墨を付けて書くということもしているらしいけど」

「その方法もいいとは思うのですよ。ただ、その場合、鳥でなくてもっと皆が手に入れやすい方法がいいんですよね。あと安価にできること。それこそ子供が簡単に手に入るくらいのものがあればいいと思うんですが」

「どうして子供に?」

「あなた勉強は好きでしたか?」


 え? とサボンは唐突に変わった質問に目を瞬かせた。

 ふと「お嬢様」時代のことを思い返す。つい最近までのことだったのに、今となっては実に懐かしい。のだが。


「好きではなかったわ……」

「私は好きでしたよ。何かになるんじゃないかって、あなたと一緒に聞いていた時にも、先生の教えが勿体無いので、全部覚えてやろうと思ってました」

「まあ貴女はそういうとこありますねえ」


 軽く皮肉めいた口調でサボンは返した。


「私は覚えてしまう頭をたまたま持ってますけど、皆が皆そうではありませんので」

「たまたま?」

「だから、私は本当にたまたまそういう頭をしていただけです。だからという訳ではないですが、あなたがリョセン殿と会っている時のあの何とも言えないもだもだした様な態度は結構解せないことが多くて」

「……貴女が嫌味を言えないことは私知ってるわ」


 そう、知ってはいた。この乳母子は、何やら異様な、自分達では全くもって想像がつかない「知識」を受け止めることができる頭を持っている。それ以前に、見たもの聞いたものをそのまま記憶できるものであることも。

 その一方で、何かが欠けている。

 アリカは本当に人の心の機微に疎い。気が回る様に見せてはいる。だがそれは繰り返される人の態度の観察と学習の積み重ねなのだ、ということに、立場が変わったことで気付いた。

 おそらく立場が変わらなかったら、この乳母子の、自分を含む大勢との「ずれ」について考えることもなかったろう。

 「昔のサボン」は、手先そのものは決して器用ではなかったが、ともかく先回りして自分の望むものを出してくれたのだ。 

 そして一方で何処か微妙に鈍かった。

 そうだ、とサボンは思う。それは確か昔、自分に初潮が来た時のことだ。その時「昔のサボン」はどう言った?


「ただ血が流れてお腹が痛くて身体がだるいだけですがどうしました?」


 確かに彼女自身も、そういう日は動きが鈍かったが、全くもって辛そうではなかった。下腹が痛いとは思っていたらしいが、それが「辛い」という感情につながっていないのだ、と言われた時には正直かなり驚いた。自分だったら、何でこんなことが毎月起こるのと、そう苛々しているばかりなのにと。

 そして今ときたら、刃物で切り裂かれてもすぐに治ってしまう身体になってしまった。

 今は妊娠しているから生理は来ない。

 だがそもそも、もう彼女の腹は結構な大きさになってきている。なのに、他の女官から聞く、そこまでの期間の妊婦の様々なしんどさを全くアリカの口から聞いたことがない。相変わらず書庫の本を持ち出しては大きな紙に何やら書き付け、考えることは多岐に渡り、時々天井裏と連絡をし、皇帝陛下と夜の外でなかなかに不穏な会話もしている。

 そして何とも皮肉なことに、様々な仕事をしているおかげなのか、お嬢様だった頃しんどかった生理時の辛さが現在ではさほどではないのだ。

 何だかなあ、と時々サボンはため息をつきたくなり――― そういう時リョセンに会いたくなるのだが。

 少なくとも彼は二ヶ月がところ帰ってこない。ひと月は広い範囲で暮らしている親戚に顔を出してこなくてはならないし、沢山居る「母親」全部にも挨拶をしてこないといけないというのだ。

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