番外編/彼と私〜KARIN〜

近くて遠かった(1)


 過去の恋なんて誰に話すつもりもない。思いがけず知られてしまった相手ならいるけれど。出来ればずっと他人に触れられたくない領域なのかも知れない。



 いや……むしろ聖域?



(バッカじゃない)



 自分の脳内に浮かんだ言葉に自分で突っ込んだ。きっと自嘲の笑みが零れた。だってそうでしょ、そんな言葉で形象できるものじゃない、もっと生々しくて見苦しいものだったことを誰よりも知ってるのはアンタのはずでしょうって。


 綺麗だったのは……彼だけよ。外見的な意味ではなくね。


 私がどんどん欲に塗れて自分の中だけでは抑え切れなくなって、女の武器を使ってあざとく、あの小さな部屋で何度となく迫った。そんな中で、虚しくなるくらい彼だけが染まらなかったの。



花鈴かりんさーん、そろそろ本番いきますけどいいですか?」


「今行くわ」



 コートを脱いで立ち上がると、まるで図ったように潮風が強さを増した。ショートボブだから視界は割とはっきりしてるけど。


 一般の人の姿などない、まだ薄明るい程度の早朝の海浜公園。ひらりひらりとはためくマットブラックのワンピース。撮影スタッフの元へ歩みを進める生身の脚が12月上旬の冷たい風に惜しげもなく晒される。


 ヒールを履いた爪先が……少し痛い。ある程度の高さには慣れているけどたまにこんなこともあるのよね。


 こういう物質的な感覚こそが本物。あとはどれもこれもあてにならない。そう信じて生きてきたはずだった。



 二宮にのみや花鈴かりんという芸名は本名でもある。何故か社長がこの名前を気に入ってくれたらしいのよね。


 そうして23歳のときにモデルになって1年目で今日みたいなCMの仕事まで入ってくるようになった。2年経った今では割と頻繁にこなしてる。元々は雑誌やファッションショーメインで活動しようとしてたからTV出演は想定外だったけど、顔が売れればまた新たなチャンスが開けるかも知れないし、そこは柔軟に考えていこうっていうスタンスよ。


 数少ない友達からは「すっかり遠い人になっちゃったね」なんて言われるけど、どうかしらね。モデルや芸能人だって社会人の一部だと私は思うんだけど。プライベートで何があろうと極力仕事には持ち込まず、状況に合わせた表情、振る舞いを徹底する。実際多くの人間がこんなことをしながら生きているでしょう。


 私はこの業界じゃ遅咲きだから尚更甘えは通用しないと思ってるの。わかってるの。私が枯れるのを待ってる子たちが沢山いること。だからこそ弱いところを見せてナメられる訳にはいかない。長く咲き続ける花でいたいのよ。



 何度か撮り直しはしたけれど、今日のCM撮影も予定より早く切り上げることができた。ワゴンの後部座席に乗り込み目を閉じる。満ちていく朝の光が私の瞼の裏を赤く照らしていく。少し眠くても確かにここに居るって感覚。


 そう、過去に感情を引っ張られそうになってもすぐ現在に戻って来れる。幻になんて惑わされない。それくらいには慣れてきたわ。




「あっ、花鈴さーん! お疲れ様でぇーす!」


「おはよう、美華みか


 事務所に戻るなり黄色い声が飛んできた。もう慣れたものだけどね。


 新人の美華は今年高校を卒業したばかりの18歳。ただの仕事付き合いだから本名は知らないわ。


 そうね、モデルの中では小柄な方だけどバランスのとれたプロポーションをしてるし、小動物を思わせる顔立ちはロマンチックなコーディネートにぴったり。更に最近では、その突き抜けたぶりっ子キャラで注目を集めてる。まぁ私がわかると言ったらこれくらいかしら。


 彼女もこの後撮影に出かけるはず。私は私でまた別の場所での予定が入ってる。その前の一息。私たちはどちらが合図する訳でもなく、ちょうど2つ並んでる壁際の椅子に腰を下ろした。


 長い髪を指先でくるくる弄りながら美華が私の耳元に顔を寄せる。ちょっと鼻息荒く。


「そういえば花鈴さん、明後日の合コン! 行くんでよね? いいなぁ〜、美華も行ってみたぁい。でも美華、未成年だからそういうの厳しくってぇ。早く大人になりたぁ〜い!」


 中身もこの通りよ。清々しいくらい裏表の無い子だわ。


「そういえばそんな話があったわね」


「えぇ〜! 忘れてたんですか!? 花鈴さんってやっぱりクール! 男の人に興味ないんですかぁ?」


 多分、人数合わせで呼ばれただけ……なんてのはわかってるけど、そこはプライドが邪魔して言えなかった。こういうときちょっとだけ惨めな気分になる。だけど2番目の質問に答えることなら出来るわ。



「恋愛って人間関係の中でもダントツに面倒くさいじゃない。結婚なんてことになったら自由まで制限される。所詮は他人よ。自分を高める為の試練なら買ってでもするけれど、他人の為に労力使うなんてなんだかもったいないわ」



 理由は単純。こう言っておくのが一番私らしい気がした。ほら、美華も目をまん丸にして納得の表情を浮かべてるわ。



「確かに花鈴さんくらい自分をしっかり持ってたら1人でも生きていけそう〜。でも美華は面倒くさいのと寂しいのだったら面倒くさい方がまだいいかなぁって思います。いつかは慣れそうだし。でも心の隙間は埋めても埋めてもどんどん空いてくから自給自足には限界があるんですよぉ」


「多かれ少なかれ束縛だってあるかも知れないのよ?」


「その方が愛されてる感じがします〜! しかも有名で若手なお医者さんたちが集まる合コンなんですよね? 将来有望&生活安定! 魅力的じゃないですかぁ〜! 私が代わりに行きたいですよぉ、花鈴さぁん!」


 肩をゆさゆさ揺さぶられて私はふぅと気怠いため息をつく。ちょうどそのとき事務所のドアがガチャリと開いた。


「!」


 そっちを振り向いた美華が硬直する。彼女を見下ろす2人の女の鋭い視線。


「じゃ、じゃあ美華そろそろ支度してきますね〜!」


 そそくさと去っていく彼女の背中を私は見送ることもなくそっぽを向いた。




 多分、私にベタベタしていることで先輩モデルたちから煙たがられてる。金魚のフンなんて陰口叩かれてることだってとっくに気付いてるんだろう。あの子自身だってどういうつもりで媚を売ってきてんだかわからないけどね。腹の中では私のことを馬鹿にしてる可能性だって十分にあると思うわ。


 この社会で、私は誰も信じてはいない。自分以外は。


 ただ……



「強かに生きなさい」



 さっき見送ってやれなかった代わりに私は、帰りがけに事務所のビルを見上げて呟いた。ここは、この街の明るさは、夜の底知れぬ闇を強調する。飲み込まれてしまう前にと私はまた歩き出した。




 自宅マンションに着いたらすぐお風呂の準備をした。


 じっくり半身浴をしながら夕食のメニューを考える。温野菜サラダはいつもの定番、今夜はスンドゥブもつけようかな。でも食後の一杯はいつもの赤ワインじゃないと気が済まない。


 親父オヤジの会社が倒産寸前なんて危機に見舞われながらもこうしてまた悠々自適な一人暮らしが出来るようになったのも、予想以上の短期間で私の名前が売れてくれたおかげ。親父の方はまだ崖っぷちだから相変わらず仕送りしてるんだけどね。助けてるなんてつもりはないわ。別に私は、自分に必要な分のお金だけ手元にあればいいから。



「それにもう……」



 必要なくなったから。



「…………っ!」



 お腹の底から何かが押し寄せて息が詰まる。本能が警鐘を鳴らす。その正体に気付いてはいけないような気がして、私は思わず両手で湯を掬いザバッと勢いよく顔面に浴びせた。


 ポタ、ポタ、と滴る雫が幾つもの波紋を立てる。その中に青と赤の魚を見た気がした。



――ありがとう、花鈴ちゃん――



 それはきっと、いつか私が彼にあげた2匹のグッピーだ。



「……れん



 波紋はいつまでも続いた。壊れ物のように繊細で可愛くて特別だった彼を思い出しながら、幾つも幾つも滴り落ちていく。そんなに汗もかいていないはずなのに。


 そして私はやっと理解できたの。ううん、きっと本当は深海のような意識の底でちゃんと覚えていたんだと思う。



 私が彼の手を離してからちょうど2年。



「今日くらい……いいわよね」



 そっと膝を抱えてまゆの形を成す。のぼせちゃう。いつまでもこうしてはいられない。でも水滴の優しい音色が響くこの場所は、彼と過ごしたあの空間を思い起こさせる。


 今夜はこの胸の奥底へ沈めた煌びやかな記憶へと手を伸ばしたかった。

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