5.あたしが欲しいもの


――川上主任から聞きましたよ。蓮くん無事に見つかって本当に良かったね!――


 人間って考えるのやめようとしてもなかなか上手くいかないもんだな。浴槽に浸かってる間もあたしの中ではさっき電話越しに聞いた坂口の声が繰り返し響いてる。


――川上主任のことだから、休むように言われてるでしょ? 茅ヶ崎さん、今回は頑固にならずにちゃんと言うこと聞くんだよ――


 本当にあたしは周りの人間に恵まれたよな。でも人に甘えられない性分ってどうしたらいいんだか。今夜くらいは羽を伸ばそうと思うけど、頑張らないことに頑張ってるっていうのもなんだか滑稽っていうか……


 ぱちゃ、と音を立ててあたしは浴槽から上がった。いい加減逆上せそうだしな。手早く最後の洗い流しを済ませて、今はひとまず風呂上がりの一杯を楽しみにすることにした。


 今日この実家に居るのは特に気を使うような相手でもない。母さんが寄越してくれたパジャマを着て、髪も結構適当に乾かした。もちろんすっぴんのままリビングに戻る。



「先に入らせてくれてありがとな。みんなも入るだろ?」


 父さん母さんと話しながらくつろいでいた友人たちに言うと、次々と声が飛んでくる。


「いいんスか!? ありがとうございますっ!!」


「あっ、でも俺らは最後でいいですよ」


「私も最後でいいよ。ありがとう。それより旦那は? まだ眠ってるから無理かな?」


 そうだな、蓮……風呂くらい入りたいだろうけど、今はすっげぇ疲れてるだろうし、こういうときってシャワーの音さえ辛いって言ってたもんな。ちょっと様子を見てきてから判断するか。


「冷蔵庫にビールとチューハイ冷やしてあるから、お風呂上がった人から好きに取りな。ちょうど多目に用意してあったから足りるっしょ」


 母さんが台所の方面を親指で示すと、あざすッ! とかご馳走様ですッ! とか、勢いのいい礼が続いた。こうして飲みたい奴から飲むっていう気楽なスタイルに決定だ。


 こんなふうに楽しい夜が過ごせそうなのも蓮が無事に見つかったおかげなんだよな。じんわりと熱い思いが込み上げてきたあたしはきっと目を細めていたと思う。


 そして恋しく思う。いま天井一つで遮られている彼とあたし。歩けば数秒で辿り着けるけど、無性に会いたくて会いたくてたまらなくなった。



 先に始めててくれと言い残してあたしは階段を上がった。懐かしい匂い。足元の軋み。幼い頃はちょっと不気味に思っていたことなんかを何故かいま思い出す。


 かつてはあたしと妹の部屋だった場所。そのドアをそっと開ける。カーテンは閉められ、豆電球のオレンジ色した明かりだけがぼんやり闇に溶けている。あの頃と変わらない畳の床に柔らかな布団が敷かれ、なだらかに盛り上がった全体を経てイヤーマフを外した頭が覗いていた。


「蓮……」


 傍にしゃがんで何か語りかけようと思ったのに、出てくるのは愛しい名前だけ。仰向けになって目を閉じている彼からは寝息すら聞こえない。でも腹の部分が僅かに上下しているのを見るなりホッとして、あたしの視界が霞むのがわかった。


 良かった、生きてるって、思ったんだ。大切な人が息をしている。これは凄く尊いことだ。人間は何故、これを当たり前だと錯覚してしまうんだろう。いつからなんだろう。


 でもよ、目覚めたら大切な人が居ないかもとか息してないかもとか、怯えながら生きていくこと、そう簡単に出来るか? 出来ちゃ辛くないか? 少なくともあたしは耐えられる自信ねぇよ。


「…………っ」


 かつてなら想像もしなかった恐怖に心を容赦なく揺さぶられ、言葉を紡ぐ訳でもない声帯が震えた。


 サラサラした彼の前髪を少し指先で整えてやる。眠り姫みたいだけど、キスしたり……なんて雰囲気とはちょっと違う気がして。名残惜しく思いながらもあたしは立ち上がった。また後で来ようと決めてドアの方へ歩き出したとき。




――葉月、ちゃ……




 眠り姫が目を覚ます。暗闇の中で小さな雫が滴るような幻の音を一緒に聞いた気がした。


 波紋が広がっていく。振り返ったばかりのあたしの中で。ザワザワと風にそよぐ葉のような音があたしの中で。不思議だ。音を避けて生きているはずの彼がこうして音を連れてくるんだから。だけど雑音のたぐいじゃない。優しく儚く何処か哀しい音色。


 都会の雑踏の中ではたやすく掻き消されてしまう、だけど本当は常にあたしたちと共にある、そんな音色。



「蓮、起きてたのか。気分は……どうだ?」


 顔だけこちらへ傾けて見つめてる彼の元へ歩み寄った。再び傍へしゃがみ込んだ。蓮の唇は少し動いた程度だけど、大丈夫って、あたしには聞こえたよ。


 額を撫でると少し貼りつく感触。やっぱりな、とあたしはため息混じりの苦笑を零す。


「風呂沸いてるからお前も入るかと思って来たんだけどよ、お前ちょっと熱っぽいな。待ってろ、身体拭いてやる。今夜はゆっくり休んで……」


 立ち上がろうとする動きが食い止められた。ほんの僅かな力で。視線を落とすと蓮があたしのパジャマの裾を指先でつまんでいた。


「葉月、ちゃ……僕、僕は……」


「ん、なんだ? ゆっくりでいいぞ」


「ご、ごめんなさい」


「悪かったのはあたしもだよ。ごめんな。それにお前、帰ってきて、くれたんだろ……?」


 探り探りな問いかけになったと思う。正直、あたしの中にはまだ不安があったからだ。こく、と小さく頷いてくれたけど本当にそうなのかって。あたしらのマンションに帰ってきたんならわかるよ? でも実際はあのペットショップから蓮が偶然出てきたって形だ。コイツから声をかけてはきたけど、本当は帰る気無かったんじゃねぇのか……って。


「なぁ、あたしも話したいことがあるんだ。いま大丈夫か?」


「ん……」


 長い話には筆談が必要になるかも知れないと思って部屋を明るくした。長い睫毛を下向きにしていた蓮が少しずつ瞼を開いていく。


 彼が荷物の中から取り出したのは、自殺の名所が書かれていたあのメモ帳。パラパラと開く途中で何枚か破られているのが見えた。胸が痛くなる。これを書くことで蓮は少し気持ちが楽になっていたのかも知れないのに、あたしがその手段を奪っちまったんじゃねぇかと思って。でも今更悔やんでも遅いよな……。


 ウサギみたいに丸まって畳の上でペンを走らせていた蓮がやがて身体を起こした。彼は文字で、あたしは声で、離れていた時間のことを伝え合った。



 蓮から受け取った内容は“今まで何処に居たのか”。


 一度は隣の県を跨いで更に先まで向かったらしい。ネットで検索したカプセルホテルで一夜を過ごした。でもあたしのことが心配でほとんど眠れなかったらしく、翌日また電車に乗って警察署近くの駅っていう中途半端な位置でとりあえず降りた。


 今更平然と帰る訳にもいかずどうしていいかわからなくて街中をウロウロしていたんだとか。ちなみに自殺しようなんて気は無かったという。



 あたしが伝えた内容は“蓮を捜索するのにどんな手段を用いたのか”。


 再会した後のあたしの行動でもう大体はわかってるだろうけど、在宅ワークの事務所の電話番号を警察に伝えておいたことも改めて話した。明日朝イチでお前から電話した方がいいとも言った。


 今後仕事がやりづらくなるかも知れないという心の準備もさせておきたかった。申し訳ない気持ちもある。


 だけどそれほど蓮を心配していて必ず無事に見つけたいからこその判断だったことも真剣になって言った。


「なぁ、蓮。すぐに謝ろうとするお前の癖は簡単に直せるものじゃないかも知れねぇけど、今回の件で何がいけなかったのかちゃんとわかってるか?」


 厳しいかも、とは思いつつの問いかけに蓮は少し困惑したような顔をする。


「出て行った……こと……?」


 間違えたら怒られるとでも思っているのか、ただでさえ狭い肩を更に縮こまらせて。


「そうだな。追い込まれているときは誰でも判断が危うくなる。特にお前は1人で考え過ぎちまうところがあるから、そういうときこそ一度立ち止まって無理に先へ進もうとはしないでほしい。ちゃんと相談してほしい。あたしも次からは落ち着いて聞くように気を付けるよ」


「ん……っ」


 今あたしが考えられる精一杯の対策だった。学生時代に自傷したときもそう、行動力がおかしな方向へ向かうことがある。衝動的な行動がどんな事態を招くか、コイツにも知ってもらわないといけねぇからな。



 そして一番訊きたいこと。



「あたしはこれからもお前と一緒に暮らしていきたいんだ。蓮、お前は……どうだ?」



 その言葉を受けた蓮は、膝の上でパタ、とメモ帳を閉じた。下を向いたまま頷くまでちょっと間があった。駄目だ、細かい仕草までなんか悪い意味があるんじゃねぇかって気になっちまう。


 でも蓮はやがて、あたしに視線を戻してくれた。眉がきゅうっと中央に寄っている。


「葉月ちゃ、と、一緒に、いたい。でも、僕は障害があって、病気にも……なって、葉月ちゃんに、悲しい思いを、いっぱい……」


「障害があるなんてわかった上で結婚したんじゃねぇか。大体障害ってのはよ、生活していく上で困難を感じるからそう呼ばれるんだろ? あたしにとってはそれも含めてお前の個性なんだよ」


 届いてるか? 蓮、あたしの思い、ちゃんと届いてるか……? あんな酷い態度をとったあたしじゃやっぱり説得力ないか?


 ぎゅっと蓮の手を握ったとき、凄く悲しい響きがぽつりと落ちた。




「病気になって……ごめんなさい」




 瞬きを忘れたあたしの瞳は乾くどころか潤って、ついに頰の上を一雫が伝った。


 遅れて身体が震え出した。やっと出た声ももちろんだ。



「馬鹿……! 好きで病気になる奴なんている訳ねぇだろ。そんなのお前が一番わかってんだろ」



 溢れ出る感情に耐えられなくなったあたしは彼をひったくるようにして抱き締める。熱を頰で、吐息を耳元で確かめながら、服がしわくちゃになるくらい背中をさすった。


「薬を飲むのも副作用に耐えるのも、病気なら当たり前って思われがちだけどそんなことは無ぇ。全然簡単じゃねぇ。だって人間には多かれ少なかれ承認欲求があるから。休むってことも本来は難しい生き物なんだよ。なんらか役に立ちたいとか必要とされたいとか思いながら生きてる奴がほとんどだよ。だからすぐ無理をする。治療を疎かにする人もいる。必要ってわかっててもやるせなさが勝るから……」


 一気に喋り過ぎてるかとは思う。だけど抑えられなかった。指先に力を込めてしまった。彼の細い鳴き声が聞こえても。


「そうやって難しいことを毎日頑張ってるお前がなんで謝らなきゃならねぇんだ。なぁッ!?」


 これじゃあ怒鳴り声だ。本当自制の効かない奴……って、自分が嫌になっても。


 可哀想とか、思わない方がいいのはわかってるよ。代わってやりたいなんて安易に言えないことも知ってるよ。でも痛いんだ。心がヒリヒリするんだ。



「葉月、ちゃ……」


 迷子のように頼りない蓮の声がすると共に、あたしの肩がじわじわと湿ってくる。少し身体を離して見つめると、彼も瞼を赤くしていた。


 あたしがもっと強かったらって思った。でも頭が冷えていくうちにそれはどうしようもないことだと気付いた。



――ね、もっと見せていいと思うよ。茅ヶ崎さんの弱いとこ。無理して強そうにしてるより、よっぽど心を開きやすいよ――



 坂口の言葉が蘇ったからだ。今のあたしの素直な気持ち、弱いところ、口にすることを許してほしい。あたしはようやく微笑みを浮かべられた。



――蓮。



 言葉にするならこれしかない。




「あたしを愛してほしい……これからもずっと」




 なぁに、深い意味どころか凄くシンプルな意味だ。色っぽいばかりが大人の関係じゃないだろ。



 しばらく目を丸くしていた蓮だけど、やがてうつむき歯をきつく食いしばり、ついにあたしの首元に縋りついてきた。しゃくりあげながらあたしに応えた。



「ん……! 僕、葉月ちゃんを、愛してます……! これからも、ずっと」



 ほら、すれ違いばかりじゃない。ちゃんと通じ合えることもある。安堵の吐息を零し、彼の小さな唇に顔を寄せたとき。



 ガタッ



 物音はドアの隙間から。



「あっ!? すっ、すみません!! 俺、何も聞いてませんから! そ、そのままお気遣いなく」



 なんか勝手に解釈して顔を真っ赤にしている敦。蓮もおんなじような顔色になっていて思わず吹き出した。久しぶりに取り戻した不敵な笑みでとりあえず覗き見していた方の奴に言ってやる。



「シンプルな意味だから安心しろよ」

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