4-15.魔人

 森を騒がせた罰だろうか。とてつもない獣を呼び寄せてしまったのか。


 巨大な鉤爪を持つ四足の獣が、うずくまり、低い胎動のようなうなりを上げる。

 それはおそらくその獣の身内から発している闇の波動に他ならない。

 長大な顎を少し開いたそれが、眼を開けた。

 縦長の瞳孔を持つ、雨の前日の夕陽の如く紅の両眼を。

 圧倒的というのも陳腐に思えるほど、眼前に伸し掛かってくるかのような存在感にミケランも、皆も、正気を失っていく。

 人の意志や、個人の素質でどうにかなるたぐいの感情ではなかった。意識に、身体に、神経や血管のすべてに流れ込む”服従”の意志。

 血だ。血と肉の中を走る激怒であり、脅威であり、死の威嚇であり、魂が発する警告にも等しい――――


 いともたやすく生きとし生ける者を支配出来るそれが、姿勢でも変えるようにみじろきした。

 ずらりと身体を覆う鋼鉄板めいた鱗がそれに合わせて波打つ。

 陸鮫たちに向けて“尾”が叩きつけられる。打たれた岩が砕け散り、破片がばらばらと落ちてきた瞬間――――


 我先にと逃げ出しはじめた……

 王命を果たすことのみを叩き込まれているはずの陸鮫たちが!


 同時に逃げ出したいのはやまやまだったミケランだが、シャオたちもじりじりと踏みとどまっているのを見てかろうじて我慢出来た。

 再び岩場の上に目をやると何も居ない。

 ただ、元通り、昏い森の闇がそこまで迫っているだけだった。何もかも錯覚だったのではないかと考えたくなるほどだ……

 今更、全身から噴き出した汗さえなければ。


「い……今、何かそこに、すごいものが居なかったか。ルシンタ……?!」

「わかりません。あんなに巨大な“獣”は、そもそもマンドラ島にはおらず……しかも陸鮫さえも逃げ出すほど、恐ろしかった……!」


 その時である。ガサガサ、と藪をかきわけてくる音に全員が飛び上がった。


(今度は、何だ?!)


 暗褐色の肌、猛々しくも高貴な顔立ちと冷静沈着な赤い目をしたタルタデス人の戦士ではないか。

 皮巻きで腰から下を覆い、ごく小ぶりな手斧とサンダルを帯から下げている。裸足である。

 何よりも目を引くのは、背中に軽々と背負った巨大な長箱……

 どうみても、棺だ。

 油を染み込ませた麻縄で隙間を厳重に塞ぎ、水の一滴も入らなそうなほど密閉しているが正面には小さな空気穴のようなものが開けられている。

 大変な重量だろう。それを縄と革帯で上半身に巻きつけ直しながら、悠然と歩いてくる。


 別種の恐ろしさで固まりかけたミケランははっとして振り返る。

 シャオが引き連れてきた戦士団が激しい動揺、いや歓呼の呻きを発し、一斉にその場にひれ伏していた。

「……また、タルタデス人、が。あれも貴方のお仲間か、シャオ殿?!」

「……ええ!」

 臆せず、シャオは右手を突き出し凛とした声を放った。


「シャンガ! オロルン・ヴェガラバルアンダ!」


 驚愕の眼差しをした偉丈夫の動きが止まる。これが例の、平民には使うことの許されない“王者のタルタデス語”とかいうものだろうか。

 不可解なのは、シャオが何か、偉丈夫に向かってあらん限りの親しみと感激を抑えるのに苦心しているかのような表情をしていることだった。

 しばし、東方人の王子と偉丈夫との間で勇壮な響きの言葉が交わされた。暗い褐色の顔の中、白目だけが輝くような棺桶男の眼がシャオの腰の刀につと向けられる。

 アンキ、とか、そんなことを呟き、シャオとまた見詰め合う。

 何かを我慢するように深呼吸をした後、シャオはかすかにうるんだ瞳でミケランに向き直った。

 話がついたらしい。

「この方は……ひとまずヴェガという名前だということにしておきましょう。この先に、わたしが探している人がいると教えてくれました」

「待て、この道を進めるのは選ばれし者のみ。こんな、作法も知らぬ気な蛮人は……」

 瞬間、ヴェガとやらがいきり立ったミケランを赤く光る視線で貫き、何かを言った。

「な、何を……今、何を言ったのだ………この男は?!」


「“不当に汚されし大地の嘆き、邪悪に研ぎ澄まされし悪意の爪をば、我、砕かんがため、西風に乗りて現れし黒衣の導き手を伴い、古き始祖の血の滲む地を出たり”」


 シャオが、遠くの大地から吹き寄せる風のように涼やかな声で通訳した。

 どうやらこの偉丈夫は生まれつき“庶民の言葉”を話せない宿命(さだめ)らしい。


「“今宵、我ここに汝らと並び立ち、血潮の誓いを持て悪を打ち砕かん”……」


 言い終えたヴェガは凝固しているミケランから目を逸らし、再びシャオに言葉をかけた。その目つきは先ほどより和らいでいる。

 すでに地面すれすれまでひれ伏していたタルタデス人の戦士軍団がさらに地面にのめりこみそうなくらいに身を屈めた。

「“セイミ・シャオ、我は今は王にあらず。御身は御身の一切をなされよ、我、行く手速やかに聖山の麓に汝らを導かん。竜戦士らよ、よくぞ来たった、終始我らを助くべし”」

 こんな呪われた島に、いま、世界中の王と王子が何人いるというのだろう? 皆、ただでさえ肩身の狭いミケランの数少ない地位を脅かそうとしているのではないのか。

「……ひとつ、どうしても尋ねたい。先ほど、岩の上で恐ろしい獣を見たかどうか……」

 シャオを介し、ヴェガは答えた……貪婪とも見える目つきで不敵に微笑みながら。


「“我、それを見る事は決してあたわず。しかしてよく知悉する者なり……今は、遠くに去ったよし”」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る