4-12. 逃亡

「大僧正の謹言を疑うことは神々を疑うこと……それもわからぬか」

 あくび混じりに言うジャルバット王。

 そろそろ、昼餉が気になるであろう時間だ。


 この絶望のときに思い知らされる。

 自分がまだ、この残虐な父に愛情を抱いていたという愚かしいまでの事実を。

 どんなに肥満だったとしても、どんなに動かなくなったとしても、どんなに支離滅裂であったとしても。心の奥底では息子たる自分を愛してくれているはずだ……

 それこそただ、自分が見たいと思っていた幻想だったのか。幻想と現実をはき違えていたことが罪だというのなら、確かに自分はおろかな罪人であろう。だが。


(ルシンタは違う。我が命に従っていただけだ!)


 一つ年下の彼をずっと友とも呼べなかった。彼を"二度"、殺されないようにするために。


 かつてミケラン王子に標本つくりを教えてくれた侍医の一人息子(ルシンタ)は、父親を気まぐれで殺された上に恥辱を与えるためだけに後宮送りにされ、学者になる夢を絶たれた。

 ミケランに出来たのは従者の名目でそばに呼び寄せることだけだった。


(また、殺されるのか……わたしのお気に入りのものが、むざむざと?)


 誰かのために自分を強くする。

 もしや、アルメリカやシャオもそうやって生きて来て――今があるのだろうか。

 憤りで震えてやまない手を拳にし、そっと緩め、礼を取る。

「わかりました……私もマンドラ国の王子、甘んじて罰をお受けいたします。しかし、その前に小水に行かせてください。死に装束に身を調える前に汚れたものをお見せするわけには参りませぬ」

 じっと、ミケランは動かぬ父王の闇の帳を見つめた。

 何か、王が逡巡している気配があった。もはや、どちらに転んでも同じことだ。

「……それからそこの下僕……目玉だけと言わず、どうか私と共に潔く処してください。おい、お前もいつまで御前にみっともなく這いつくばっておる! 手伝え、参るぞ!」

「小水も御一緒とは、ずいぶん仲がよろしいようで……」

 ランダが小馬鹿にしきったように呟いた以外、起き上がったルシンタがよろよろミケランの後に続いていくのを誰も咎めはしなかった。

 王に死を宣告されたものはすでに死者、その穢れから逃れるために誰もが指で魔除けの印を結んでいる。


 斜め後ろをふらつきながらも着いてくるルシンタの、裂傷だらけの顔に目をくれる。彼が眉をそびやかした。

「これですか? おそれながら、あれを切られた時の傷みにくらべれば屁でもありませんよ」

 血まみれに腫れ上がった瞼の下、ルシンタの光る目つきが自分と同じであると分かったミケランは、勇気を得た。少なくとも、勇気だと感じるものを。

 暗い階段を登ったり、降りたり、まだ“判決”を知らない王宮の衛兵たちが平伏するのを行きすぎる。

 残された時間は多くはない。

「……レンヤたちはどうやって逃げたのだ?」

「カーラが手引きした可能性が高いかと」

「カーラが?! なぜだ……そんなにもあの娘をいたぶりたかったのか?」

「理解しかねます。ともかく、アルテルシマです。西側に張り出しているところ、あそこから伝って逃げたようです。石材に囲まれていないのは確かにあそこだけですから」

 神魔の森以外でも、聖樹を無断で切り倒すことは死罪に値する。

 アルテルシマの根が伸びてくれば王宮といえどもそれに合わせて建物の構造を変えるのが当然の習わしだ。

「アルメリカは……」

「最後に見かけたときはこちらを罵倒出来る程度には回復しておりました。でも、樹はもうだめですよ。アルメリカ姫の逃亡以来、見張りが立てられています」

 その言葉に、下っていたミケランは突如方向転換し、今度は階段を登りはじめた。先ほど平伏していた衛兵たちが戻ってきた王子たちを見て怪訝そうな顔をした。

 見晴し台への螺旋階段を駆け登り、扉を開ける。

 風に吹き飛ばされそうになりながら手すりから見下ろす。流星川の川面を目視するや否や、ミケランは言い放った。

「……逃げるぞ、ルシンタ!」

「なんですって? ……良かった。てっきり、身投げの道連れを命じられるものだと」

「どのみちそうなるやも知れぬ。だが、アルメリカのような娘に出来て、我らに出来ぬはずは、ない!」

「あれはどうみてもまともな姫ではありませんでしたが……謹んで同意いたします。ですが姫に敬意を表し、もう一ひねりくわえておきましょう」

 何かを思いついたらしいルシンタが東の祠に飛びつき二百年の間誰にも見向きもされてこなかった東方大王の丸みを帯びた石像を持ち上げた。

 ついに異常に気が付き石段を駆け昇ってくる衛兵たちの気配が迫る。

 ルシンタが石像を渾身の力で流星川へと投げ込んだ。

 瞬間、見晴し台へと殺到する衛兵たち。乱れた足音と武具がこすり合わさる音。


「居ない?!」

「待て、いま水音が……川へ落ちたぞ!」


 まさに間一髪、西側の手すりを乗り越え、絶壁のわずかな足がかりの上で二人は息を殺す。

 衛兵たちが急いで引き返していくのを生きた心地もせずに待ち続けた。


「ここで、昏くなるのを待ちましょう。いま地上に降りてはすぐに見つかります」

 幸い今は秋分を過ぎた秋の入口。夕暮れも、そこまで遠くはない。

「そなたの言う通りにしよう……それにしてもまるで蝙蝠だな」

「ええ、もしかしたら“エーサラ姫”をかろんじた我らに対する罰かも知れませんね」

 先ほどまでかしづかれていたはずの王子が、今や王の罪人として追われているばかりか断崖絶壁の壁に張り付くことしか出来ないでいる。

 何もかもが滑稽だ。

 全世界から島へ押し寄せてくるかのような雲の群れを見上げて、ミケランは呟いた。

「しかし、手の先も見えぬほど真っ暗になろうな」

「ご安心を。夜になればこそ輝くものもあると存じます」

「……すまぬ、ルシンタ。今までの、何もかも」

「臣下のわたくしが申し上げるべきところを先に仰るとは確かにひどいです、我が君」

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