最終章 マンドラの残虐王

4-1. ミケラン王子

 かつて、イルライ山から世界を見渡した者は南天の星々と水平線のあわいにいにしえの大陸の幻を見ることが出来たといわれている。


 それよりはずっと低い、東の水平線を見渡す見張り台でミケラン王子は金色と緑色に光沢を変える絹の綾衣と七色の宝石をちりばめた腕輪と胸飾り、最上級の香油を染みこませた長い黒髪に飾った冠という豪奢ななりに身を包み、沈思していた。


 紅玉の耳飾りを、海から上がってきたどこか焦げ臭いような風が揺らす。

 島の沿岸部では熱くなった海から上がってくる魚類や海藻の死体がこびりつき、腐敗臭をさせているという。海鳥は卵を産まず、森には奇怪な影が跋扈して人を襲う。

 大地は揺れ、雨だけがいつもより多く降り続いているが、刈るべき作物は少ない。


 マンドラ島。その形はもしも海鳥の眼で見下ろしてみれば少しばかり風変わりなはずだ。

 ごろんと転がした長くて丸い石の真ん中は鋭角に欠け左右に半島を形成している。抜けた歯の形に似ていることから東方諸外国の古文献によっては“竜牙島”と記されている場合もある。


 この島では岩をみても樹を見ても神々と精霊が宿り、言伝えが残っている。

 でも、今踏みつけているこの見張り台は神話とは無縁だ。東玻帝国の支配下にあった二百年ほど前に作られ、四隅には青銅で出来た龍形の金炉、北東にある祠の中では東方大王を象ったと言われるずんぐりした石像が鎮座している。


 眼下に見える険しい山肌に沿う白い一筋の流れは流星川……慈悲深き星神アンダラがその身を犠牲とし天の川として宙(そら)に砕け散った際、懲らしめられていた悪叉たちが流した悔悛の涙によって出来たという。

 聖山と奥深い森林地帯からこんこんとわき出る水と毎日降り注ぐ雨水とを束ね、清らかなしぶきを上げている……落ちたらまず死にそうな、運が良ければ生き残りそうな……微妙なぐらいの高さだ。


 ミケランにはその川の水さえもが羨ましい。自由に海まで注ぐことが出来るのだから。

  

 季節風のもたらす雨上がりの空……灰色と白の入り混じる雲に太陽の光が差し込んで、内から金色に輝きながら遠ざかっていくのを見上げた時である。

「ミケラン様、港から使いが参りました」

 見張り台の石段を、従者のルシンタが駆け上ってきた。

 彼は宦官で元は後宮の衛兵だったのだがゆえあって従者に引きたてた。利発そのものの顔立ちをし、心身共に強健で女々しいところは余りない。


「アルナムからのアガルスタ船団が、洋上に。一両日中には入港するかと」

 マンドラ島の場合、来る、というのは九割がた北西からの船を指す。あとの一割は真東、東南諸島からの船だ。

「そやつらは自覚しておらぬようだな、あれほど警告を発したのに。なぜわざわざ、滅びの海域の中に突っ込んでくる?」

 マンドラ島の沿岸はたとえ穏やかな日和でも船が沈むと言われる難所続きである。

 《大終焉》で大いなる大陸が沈んだ時の名残りで海底は荒々しく盛り上がり、あるいは沈み込んだりしている。水先案内人と熟練した船長、そして神々の加護でもないと規定の航路であろうとも辿りつくことすらあたわぬ島だ。

「……ですが、昨日から風が止みました。沖合では白波が立っていますがそれでもここ最近では久方ぶりに”開いた“海です。彼らは無事、島の岸辺を目にするでしょう」

 ルシンタの言葉には畏怖があった。 

 マンドラ人が、名づけられた神々ではなく“島”に対して本能的に抱き続けている畏敬の念だ。ところが。


「殿下、実は……お耳に入れるべきかどうか迷ったのですが……アガルスタ船団は、偽装ではないかという噂が」

「アガルスタ以外、このような時にこのような島に来たがる物好きがいるというのか? 今度は、誰が何を狙っておるのか知らぬが……」

 ルシンタは王子の自嘲気味な声色を無視して言った。

「アルナムからやってきた港湾役人がある大金持ちが所有する正体不明のマーカリア船と闇取引したというのです……複数の死体の件で」

「複数の、死体?!」

「死体の真相は分かりかねますが、率直に申し上げて……死神(セダラー)です」

「………」

 ミケランは、黙りこくった。

「もしかしたら死神が戻って来るのでは、と。あくまで噂ですが……」

「……よかろう。疾くポルテ=サスラに参り、出迎えてやろうぞ……なんだその顔は。何か、おかしいか? この私が出向くことが?」

 人に弱みを見せるのが大嫌いであるミケランの剣幕に、勘のいいルシンタはすぐに低頭した。

 ミケランは言い過ぎた気がしてさりげなく……しかし尊大さは失わずに付け加える。

「もしも本当に死神ならば、森の影に入る前に引き留めねばならぬ。それこそ王子のつとめ……そうであろう?」

 言いながらそっと、胸飾りの裏側に隠してあるもののことと、思い出を呼び覚ます。


『その箱になにを入れて行くのじゃ、マーカリア人?』

 じっと、返された昏い緑色の瞳が、やや怪訝そうに細められた。

『……どこかでお会いしましたでしょうか?』

『……? わたしは、ミケラン王子なるぞ。そちがわたしを知らぬでも、わたしはそちぐらい知っておる!』

『お許しください殿下。これは殿下の未来でございます。私を見逃してくだされば殿下が最も助けを必要となさる時に必ずお力をお貸しします……無期限に』

 男は心からの所作で恭しく頭を垂れて膝まづくと、真珠をくわえた海獣(ケトス)の家章が刻まれた指輪を差し出したのだ。


 初対面の五歳の王子へ与えるにしては莫大な口止め料として。


 ミケランは、その約束を決して忘れてはいなかった。ほとんど信仰に近いほどの信念で。

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