2-13. 罠

 その夜、“シャロン”は急に、眠りの底から錨を引き上げられるような感覚を覚えた。

 見れば、毎晩添い寝しているヴェガもすでに身体を起こしている。

 窓から差し込む月明かりの中で白目が、輝き渡っている。

「なにか今、聞こえなかった?」

 ”シャロン”とヴェガは夜陰を引き裂くような悲鳴を二度、聴いた。

 純白の長い寝間着のままヴェガと共に室外に飛び出す。 


 船足は快調で、生暖かい追い風が絶えず帆を膨張させている……だが。

 甲板に到った"シャロン"は、立ち尽くした。

 航海の守護神マリアスの像が真っ二つに割られて甲板に転がっていた。甲板員と航海士が、船首のたもとで腰を抜かしている。

 そこは船首から斜めに突き出た斜檣へ登るための足がかりの場所であり、船員たちが”便所”として使っている場所でもある。

 フレイアス家のお嬢様が入っていくのには不適切な区画なので、仕方なく”シャロン“はヴェガと共に一段手前の船首桜甲板の手すりから船首付近を凝視した。

 夜のテシス海を睥睨する船の舳先に、ギシギシと……昼間には見当たらなかった、新たな“船首像”が出現しているのを見た瞬間はさすがに肝を冷やし、ヴェガは目を細めた。

        *

 おじ様、と寝間着姿を半開きのドアに隠すようにしたまま、”シャロン”はグレンの船室のドアをノックした。   

 なんだ、といかにも眠りの浅そうな男が横たわったまま答える。

「ラルカンさんが、死んでいるみたいなんだけど」

「……みたい、とはどういう意味だ」

「遠目に見た限り、動いていないからですわ」

 “シャロン”の落ち着きぶりを見据えるようにしながらグレンが寝台を降り、袖を通さずに黒いケープを肩にかける。亡霊になったような気分で、彼を船首へと誘った。


 マリアス像を留めていた支柱の先端にあるラルカンの”串刺し姿”を見ても、グレンは呻き一つ発しなかった。 

 ただ不快感だけは露わにして「さっさと下ろせ」と言った。

 ヴェガと、気丈な一等航海士がその任に当たった。死体は両腕を固定させるために薫製肉の如くぐるぐる巻きにされていた。血だらけのロープにまみれ、光の失せた目が怨めしげに開いている。

 船員たちが素早く指を切った。魔除けの仕草だ。

「不吉だ、マリアス像が、こんな……!」

 航海士の一人が呻き声を上げた。船員たちも恐れを露わにし始める。

 グレンはその航海士を呼びつけるや、頭ごなしに怒鳴りつけた。

「歩行の邪魔だ、海へ落とせ。もはや神聖の消え失せた木屑だ。さっさとしないか!」

 誰彼構わずこの調子なのには呆れるが今は助かる。叱責され、弾かれたようにマリアス像を抱えて海へ落とし出した船員たちから“シャロン”は死体へ視線を戻した。

「硬直が始まっているわ……ラルカンは殺されたあと、舳先に飾られたのね」

 グレンが分析する養女を見下ろした。”シャロン”は慌てて、怖いわ、と付け加える。

「それから……今気が付いたのだけれどニルナが居ないわ、おじ様」

 グレンがますます眉をひそめたその時、右舷大陸側の海で突如、信号弾が上がった。

 船長が血相を変えて通信を読み解く。

「ア、アガルスタの警備艇です! 乗船許可を求めています」

「この忙しい時に」

 心底迷惑そうにグレンが唸るが、慌てふたく様子は微塵もないまま、

「余った帆布で船首をそれとなく隠せ。遺体もだ。食料貯蔵庫の空樽を使うがよかろう」

 水夫たちがマストをするすると這い上り帆をたたみ始めた。温い空気の中、死んだヴァーミをヴェガが丸太のように担ぐ。

 付いていこうとした少女をグレンが見咎め、貴女は私の側に居たまえと言った。

「ヴァーミが殺されたってバレたら、わたしたちどうなるのかしら」

「全員アガルスタで骨を埋めることになろう。いや、骨が残れば上々だと言える」

「裁判も、弁明もなしに?」

「この国には天罰と買収しか存在しない。その上、全てが緩慢だ」

 そう、“シャロン”も思い出してきた。アガルスタとはそういう国だ。


 司厨長が、グレンの命令通りに持ってきた葡萄酒の中身を死体が残した血痕の上にぶちまける。

 しまいに司厨長からいらいらと空瓶を奪い取ったグレンはそれを暗褐色の水溜りの中にいきなり投げつけた。砕けた破片が飛び散る。

「洗え、甲板長」

 命じられた甲板長がへっぴり腰でモップをかけはじめる。血の匂いが紛れていく。

「船長、皆に、”何でもない、余計なことを言うな”と言うのだ。言え、早く」

「は、はい。何でもない、皆、この件については我々が処理する。持ち場に戻れ!」

 そう、船の最高統率者は船主のグレンではなく、あくまで船長なのだ。グレンはその隙に血のついたロープを海に投げ捨てていた。

 叔父の様子を横目で見ながら、称賛の念を覚えた。この男はある意味犯罪者になれる。いやすでに立派な犯罪者だ。


 やがて、小船で乗り付けた武装役人がヴァーミ一人と部下三人を引き連れてきた。

 胴甲と折り返しのある上衣に身を包み、鼻当てのついた兜を被っていて顔がよく見えない。武器は湾曲した長剣だけだ。

「夜分に申し訳ない船長殿、および船主殿……と? おやなぜ、こんな真夜中に皆様、甲板にお揃いで?」

「なにせ、こんな真夜中に踏み込まれるとは思いもよらなかったゆえ」

 グレンが心外そうに低く言うと、役人は少し黙ったのち事情を説明した。

「実は、ガーラ教の主神殿からこの度、神像が盗まれましてな。貴船にその神像が積み込まれているのを見たとの密告がありまして」

「なんですと? 神像?」

 本当に驚いているのか不明瞭な声でグレンが言った。役人が鼻をひくつかせた。

「懲罰を司り、四肢に大蛇を巻きつかせた天雷神(シードラ)の――と、先ほどから何やら酒の臭いが……?」

「水夫の誰かが割ったままの酒瓶のせいで、天体観測をしていた私の養女(むすめ)が転びかけましてな。どういうことかと船長を問いつめていたところです」

 血のついた指先を忌々しそうに見せる。

 その言い訳はモップを持ってうつむいている甲板長や、未だ甲板上にわだかまっていたピリピリした空気をよく説明していた。

“シャロン”はそれを即座に汲み取る。

「もう本当に最低だわ、こんな船、こんな国! おじ様にまで怪我をさせてただじゃ済まさないわよ! ねえおじ様、一秒でも早く通り過ぎてしまいましょう?!」

 怒りと苛立ちに声を張り上げ、グレンの腕にしがみつき引っ張った。

 アガルスタ人の役人は高慢ちきな権力者の娘と、娘に好きにさせながら冷厳と見返してくる黒衣の男に少し畏れを成したようだ。

「申し訳ありません、ですがもう一つだけ……記録によればヴァーミ頭のラルカンが乗船していますね? 念の為に彼とも話をしたいのですが」

「そのはずでしたが、ラルカン殿は私の贈り物と一緒に降りられました。ヴァーミを乗せずに出航したため我々も少々不安だったのです。こちらの御国は色々と変更になるらしい……そちらの裁量次第で。ともあれ、船内はご案内致しましょう」

 黙している船長を睨みつけて凝固させるという巧妙な演技を交え、グレンがきびすを返し、船首桜甲板から主甲板へ下りる階段を足を引きながら下りはじめた。

 役人が胴甲と鎖帷子の音をさせて後に続いたその時。

 ふとグレンの、特徴ある足音が止まった。

 見送っていた”シャロン”もつられてそちらを見た。


 後甲板の左舷側に、誓って先ほどまではなかった荷物がごろりと無造作に置かれている。何かの大きな石材、だ。


 とっさにに手すりから身を乗り出し、"シャロン"は波しぶきの上がる夜の海面を凝視する――居た! 筏を引いた一隻の小型艇が一目散に岸の方へ退避していく。


(くそっ、このアガルスタの警備艇一行は偽物、罠だ!)


 内心で、罵倒した。

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