007 他人

 小学校のプールの前にたどり着く頃には、茜色は暗闇に残さず食べられてしまっていた。


 プールを囲うように設置された淡い外灯の元――夏見は俯いていた。彼女の身長では、この門と塀を乗り越えることはできなかったらしい。


「夏見!」


 声をかけると、夏見がこちらを振り向く。中に入ろうと、門を跨ごうとする――が、


「来ないでください!」


 振り向き様、夏見はそう叫んだ。とことことゆっくりこちらに近づき、門を隔てて僕の前で止まった。


「……先輩……私、先輩に謝らなければいけないことがあります」


 神妙な表情の夏見。早苗か海に既にこちらの事情を聞いたみたいだった。柔らかく、プールの小波にも消されそうなほどの声で紡がれた言葉は、小さな彼女に似つかわしくないほど重たかった。


「私が――先輩の人生を壊してしまいました」


 頭を深く下げる夏見。その姿は小さな彼女を、余計に小さく見せた。なんと声をかければいいのか迷っていると、夏見は自分を断罪するように、己の言葉の意味を語り始める。


「――四年も前のことです。小学六年生だった私は、自転車を漕いでいました。そのとき、バランスを崩して転んでしまいました。倒れた先は道路の上で、目の前に凄い勢いで車が突っ込んできました。もう、駄目……そう思ったとき、私はある男の人に助けられました。

 それが――でした。

 そして、それが先輩との出会いでした。たった、数秒のことでした。でも、私はあのときのことを、忘れられません」


 夏見が顔をあげる。その表情は涙でぐちゃぐちゃになっていた。それでも、彼女は語りを止めようとしない。


「先輩は……覚えていないと思います。私、見舞いに行ったんです。謝っても許されないことだってわかっていました。でも、謝りたくて……会いにいきました。でも、先輩は私のことを覚えていませんでした」


 僕は夏見のことは覚えていなかった。そのときの夏見の感情を僕は知ることはできない。彼女は僕を殺しかけ、さらに重い障がいを抱えさせた。

 だけど、夏見が罪を背負う必要など、もとからないのだ。僕が勝手に彼女の代わりに事故にあっただけなのだから。


「途方に暮れた私は、二〇二一年の八月十三日に、先輩が私を助けてくれたあの日から一年が経った日、この島の駄菓子屋の前にいました。本土と比べてかなり暑い島の気候に、かき氷が食べたくなったけど、人と話すことが苦手だった私は途方にくれていました。そのとき、先輩が現れました……優香里さんと一緒に。

 優香里さんと話しているとき、私は思いました――私はこの人みたいになりたいって。だから、髪形も服装も性格も変えたんです。あのとき、二人は中学一年生の私を子ども扱いしていましたね。仕方ないですけどね、あのときの私は中学生とは思えないくらい小さくて、気が弱かったですし、幼かったですから。今の私からは想像できませんか? あれから変わったんですよ」


 夏見の服装を見てみる。真っ白なワンピース、それに同化しそうなほど白い肌、長く闇に溶け込むほど黒い髪。優香里の幼い頃の写真と比べても、見分けがつかないんじゃなかろうか。


「でも……やっぱり、無理でした」


 ため息を吐き出すように言葉を発する夏見。時間が迫ってきている。


「……夏見……一つ質問していいか?」

「いいですよ……でも、一回しかこたえませんからね」


 その言葉が、僕には懐かしく感じた。


「――優香里がいる場所を知らないか?」


 夏見は一度、僕の目を直視した後、自分の指先を追いかけた。その視線と指先が示す方向は……岬の方だった。

 時間がない、急がなければ。気持ちとは裏腹に、足は動こうとしなかった。このまま夏見を置いていっていいのか。僕が彼女を苦しめ続けてきたのだ。ならば、僕が彼女を罪の呪縛から解き放ってあげなければならないのではないか。


「――早く行ってください」


 けれど、彼女はそれを明確に拒絶した。まるで、僕が言おうとしていることはお見通しだと言わんばかりに、言葉を続ける。夏見は僕のことを知り尽くしていた。僕は変わり続けなかったのだ。知り尽くされていて、当然なのかもしれない。


「先輩にとって一番大切な人に、会いに行ってあげてください……私のことなんて気にせずに……」


 その言葉には多くの嘘を孕んでいた。彼女の頬を伝う涙が、なによりの証拠だった。けれど、それは彼女の意思の強さの表れでもある。涙で濡れた表情は、これ以上ないほど、決意に満ちていたから。


「……わかった。ありがとう」


 背を向けて僕は走り出す。でも、一つだけ伝えておこうと思った。


「夏見……お前はなにも悪くないんだ」

「いえ、私のせいです」

「いや、たとえ夏見のせいだって全員が思っていても……僕のせいにしてくれよ」

「…………」


 僕は振り向いた。そして、自分にとって一番の笑顔を見せつけてやった。


「嫌だったら構わないんだが――これからも、僕の友人としていてくれないか?」


 返答も、夏見の表情がどんなものに変わったのかも確かめず、僕は走り出した。


 待ってろ……優香里。


 *・*・*


 辺りは静寂に包まれていた。

 聞こえるのは遠くから響く、霊盆祭の楽器の音と、人々の歓声だけだった。虫が泣くような小さな音に紛れるように――夏見は涙を流していた。


「……友人でいてくれ、か」


 夏見は恋人以上の関係を望んでいた。自分が彼の側にいるべきではないこともわかってはいたが……彼女は自分の恋心を抑えきれるほど大人になりきれてはいない。

 膨れ上がった恋は、淡い、の一言で吐き捨てられるような柔なものではなかった。

 幼かった夏見にとってあの出来事は、王子様に救われるお姫様にでもなったような、衝撃的な出来事だったのだ。小学生の「己の人生を全て掛けていい」なんて言葉は軽く聞こえるが、夏見は本気だった。

 親に反対されても、島の高校に通うことを宣言し、受験勉強もそっちのけで親を説得し、この島に引っ越しをした。

 できた友達の誘いにも乗らず、暇があれば和也に会いに行き、自分のことを説明した。


 ストーカーと呼ばれていたかもしれない。依存といってもいい愛だったのかもしれない。


 本音を言えば、毎度自己紹介から始まる、理想とは遠う和也との時間に、辟易していなかったわけじゃない。

 でも……何度忘れられても……彼女は和也に何度も恋をしたのだ。

 一日でもいい、そんな感情が渦巻いて、接吻にまで至ったこともある。けれど、彼は明日になれば振ったわけでも、振られたわけでもなく、夏見のことを覚えていなかった。試しに、和也に話しかけず、すれ違ってみたりしたが、やはり向こうから声をかけてくることはなかった。

 二人を隔てている壁を、このプールの門のように、自ら越えることはできなかったのだ。


 一度だけ、和也は今回のように夏見を助けたことを思い出したことが実はあった。だから、彼女にとって一回目の出会いはあの事故の一瞬であり、二回目は何度も繰り返される島での出会いだった。


「――夏見ちゃん」


 不意に声をかけられる。顔を上げ、涙でぼやけた視界には一人の女性の輪郭が映し出されていた。


「……海、さん?」


 月明かりに照らされ泣き顔を晒された夏見に、母のような慈愛のこもった眼差しを向ける海。そこに憐れみは微塵も含まれていなかった。

 自分の今までの努力を称賛してくれているように、夏見は感じた。そして、ついに決壊する。背負っていた荷物が降りたように体が軽くなり、気がつけば海に抱きついていた。

 言葉はなかった。言葉にしなくても、心が共鳴しあっていた。

 門を隔てていても、相手と触れ合うことも、抱き合うことができた。


「……夏見さん……霊盆祭はどうしたんですか?」

「別に私はいなくたって進行してくよ。舞はまだだし」

「そうですか……それなら」


 海の背中に回した手で、巫女服をぎゅっと握りしめた。


「――まだ、泣いていてもいいですか?」


 静かに頷く。静寂を引き裂くように、二人しかいない世界で夏見は嗚咽を漏らしながら泣いた。頭に冷たい滴が落ちてきたが、気にせず泣き続けた。

 そんな時間も、いつかは終わる。

 門の鍵を持っていた海が門を開けると、夏見は近くにあった自転車のハンドルを握った。


「どうしたの?」

「……乗れるように、なりたいんです……自転車を」


 無人のグラウンドで、自転車に乗る夏見。三日前できなかった二周と半分を、彼女は走りきった。

 和也の手を借りずに――一人だけで。


「……なんでだろうな……達成したのに、嬉しくないし、寂しいな……」 


 けれど、これからは彼の手なしで生きていかなければならない。夏見は空の流れ星に向かって、心の中で決意した。


 ――幸せになろう。絶対に。先輩も……そして、私も。

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