005 発起

 前向性健忘症。


 そう呼ぶらしい。


 ある時点から以降の記憶が阻害されることを言うと、メモに書かれてあった。あのメモや本は、お母さんや早苗の僕に対しての愛の結晶のようなものなのだ。この症状について、調べてくれていたのだ。

 ある時点から以降の記憶が阻害される……まさしく、今の僕と同じ症状だ。僕は二〇二〇年の八月十三日の時点から、それ以降の記憶がない。いや、忘れたと言った方が正しい。


 僕の記憶の期限は一日だけだ。寝てしまえば、忘れてしまう。

 ずっと、同じ日を過ごす。まるで、同じ一日がループしているみたいに。


「お母さん……どうして、僕はそうなってしまったんだ?」


 僕は椅子に座っていた。長机を隔てた向こう側の椅子に、お母さんが座っている。


「いや、それよりも聞きたい。この四年間、なにがあったんだ?」

「……特に変わらなかったよ。いや、変えなかった」


 お母さんは静かな口調で話始める。


「あれから四年が経った。早苗ちゃんは大学を卒業して、二十四歳になって……この島で働くことにしたの」


 島を出ていくと豪語していた早苗が、この島で暮らすことを決めた理由。


「この島を変えないようにって。この島に暮らすことにしたみたい」

「それは……僕が気づかないように?」

「それもあると思うよ。あの子も、なにか思うことがあったみたいだから。和ちゃんのせいじゃないよ……あの子が、自分で決めたことだから」


 僕はなにも言えなかった。ただ、お母さんの声に耳を傾ける。


「海ちゃんは神社をそのまま継いだよ。毎日、巫女さんの仕事をしてる。誰とも結婚してないし、彼氏もいないみたい。あ、早苗ちゃんもいないみたいだよ」


 大部分は変わっていない。でも、僕にとってはその微妙な変化も、自分が時間の流れに取り残された強い孤独を感じた。


「あと、今日家に来た夏見ちゃん。あの子は高校一年生。数ヵ月前にこの島の高校に来た。でも、和ちゃんとは四年前と三年前に会ってるね」

「そう、なのか」


 記憶を手繰り寄せるが、やっぱりそんな記憶はなかった。


「……みんな、変わらないように努力してたんだ。和ちゃんに気づかれないようにって、島の人みんなでね。でも、限界はあったよ。現にこうして和ちゃんにばれてるしね。みんな高齢化が進んでいるから忘れっぽくなってるし、いくら停滞しているこの島も何一つ変わらないってことはないしね」

「な、なんでっ」


 どうして、教えてくれなかったのか。目を覚ます度に教えてくれれば、もしくは忘れても思い出せるように日記を書いていれば。そっちの方が楽だし、無理に周囲を変えようとしなくてもすんだのに。


 そんな僕の疑問にこたえるように、お母さんは言う。


「――和ちゃんが、泣いていたから」


 泣いていた?

 僕も高校三年生……いや、二十二歳になっている。大人と言っても差し支えない年齢だ。大きな問題が目の前に立ちはだかったとしても、涙を流さない程度には僕も成長しているはず。


 そういえば、


「ゆ、優香里は? 優香里はどうなってる?」


 早苗や海のことは教えてくれたのに、優香里のことだけは教えてくれなかった。嫌な予感がしていた……もしかしたら、僕が泣いていた理由というのは、記憶が一日しか持たないってことよりも、


「優香里ちゃんは――もう、死んでる」


 知っていた、としか思えなかった。わかっていたのだ。記憶を辿っていくにつれて、優香里が死んだことも思い出してきていたのだ。それでも、目頭が熱くなり、溢れ出すのが止められなかった。


「……いつなんだ? いつ、死んだんだ?」


 涙が流れるのも厭わず、僕は聞く。


「……三年と半年前だね。病気で、本土の病院で死んじゃったの」

「三年と半年……じゃあ、優香里が本土に引っ越したのって」

「うん、病気が見つかったから。でも、教えてくれたのは、引っ越しして、しばらくのことなんだけどね」

「い、いつ、知ったんだ?」


 そこに、こたえがあるように思えたのだ。僕が記憶を健忘するようになった理由が。

 お母さんは何回も口にしたように、静かにこたえる。


「――二〇二〇年の、八月十三日だったよ」


 少しだけ記憶を整理しておく。

 優香里は少し前に病気で本土の病院に入院した。それから少し時間が経った二〇二〇年の八月十三日に、僕は彼女が病気だということを知った。もし、優香里が死んでしまうと知らされたら、僕はどうするだろうか。


 すぐにその病院に駆けつけるだろう。


 そのときに、僕の身になにが起こったのか?


 記憶を一日で忘却してしまうようになった僕は、優香里が死ぬことすら忘れてしまったのだろう。もしかしたら、お母さんや早苗が毎回教えてくれたのかもしれない。

 優香里の死と記憶の忘却について同時に知れば、僕はどうなってしまっただろう。


「……最初はね、毎回教えてたんだ。でも、毎回、和ちゃんの反応は一緒だったよ」

「泣いてたのか」

「うん……」


 時間が痛みを忘れさせてくれる。

 一日経てば、僕が優香里の死の悲しみも、自分が人並みの生活を送れなくなった絶望も、元からなかったかのように、忘却できてしまう。

 辛いことは忘れた方がいい。人間は忘れられるから生きていけるのだ。

 また、思い出させるようなことを言われるなら、知らない方が、時間の波にさらわれていた方が、きっと、幸せだ。

 辛かったのは僕だけじゃない。お母さん、早苗、海、夏見――僕に真実を伝える側の人間も同等の、いや、それ以上の重荷を背負ったに違いない。毎回、過酷な真実を告げて、涙を流す人間の姿を見たいとは思えないはずだ。

 僕が悪いのだ。無責任すぎたのだ。

 考えれば考えるほど、抜け出そうともがくほど、悲しみの泥沼に沈んでいく。足だけじゃなく、体までもが飲み込まれ、感覚も温度もない、無という闇の中に沈んでいく。助けてくれ……そう手を伸ばすことさえもできなかった。こんな僕に人を頼る資格などあるのか。考えている間に、口許までが飲み込まれていく。息もできず、段々と思考でさえもできなくなっていった。助けを求めるか、求めないか……選択肢はなかった。

 求めてしまえば、また、僕は大切な人を傷つけてしまう。

 求めなければ、また、同じことを繰り返してしまう。

 このまま動かなくても、手を伸ばそうともがいても、このまま闇に飲み込まれることに変わりはない。どっちを選んでも僕に最適の道はない。それなら、少しでもみんなが幸せになる方を選んで方がいい。

 僕は助けを求めない。このまま……同じように。


「――和ちゃん」


 優しい声が聞こえた。

 強引に誰かに手を掴まれた。そして、無理矢理引っ張られた。

 人を救う、助けるという行為には互いの合意が必要だと思っていた。救う側、救われる側、どちらか一方にしか相手への感情を持っていなければ、それはただのエゴになる。

 自殺ついて考えていた時期がある。自殺者には二種類の人間に分けられると僕は思っている。生きることに意味を見出だせなくなった人間だということは共通しているが、違うのは自殺を選んだ意味だ。強い人間ならば死よりも、生きる意味を見つけられる生き方を探そうとする。それができない弱い人間が、自ら命を絶とうとするのだろう。

 だけど、大体の人間が、救いを求める意思表示なのだ。

 ――本当に死んでしまうよ? 助けてくれないの?

 こんな人間は救うべきだと思う。まだ、生きる意味を見出だせる人間だ。

 残りの人間は心から死を望む人間だ。生きることを考えるだけで、嘔吐し、心臓に強い痛みが走るような、地球への適応障害を持つ人間だ。救いは求めていない。

 自殺は最悪の行為だ。けれど……彼らは救うべきなのだろうか? 

 救っても、きっと、もう一度命を絶とうとするだろう。救った人間を恨むことだろう。

 置かれている立場は違えど、今の僕は前者と後者、どちらの人間なのだろうか。

 手を掴んだまま、僕を引き上げようと奮闘する誰か。一人の力では僕を引き上げられない。

 自分に問いかける――お前はどうしたい?

 このまま、嫌なことを忘れて、誰かを傷つけていることさえも知らずに生きていくのか?

 

 ――違うだろう。


 ……ああ、僕は前者の人間みたいだ。僕は救いを求めてる。幸いにも、向こうも僕を救おうとしてくれているみたいだ。

 逃げてはならない。少しでも、前に進むんだ。

 僕は両手でその手を掴んで、両足で地面を蹴りあげて――


「――泣かなくていいんだよ」


 僕はお母さんに抱き締められていた。

 この世界に生まれ落ちたときに感じた温もりが、全てを許してくれるような慈愛に満ちた母の笑顔が、僕の心から闇を取っ払った。子守唄を歌うように、僕の耳元で囁いてくれる。


「誰も、和ちゃんのこと、恨んでないよ。みんな和ちゃんのことが大好きだから……」


 そう言われて、僕はさらに涙を流した。人の愛がこんなにも僕を癒してくれる。その事実が、傷を塞いでくれた。

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