006 輪廻

「……ああ、そうだ」


 早苗は僕の体を強く抱きしめる。痛いくらいだった。

 

「早苗……離してくれないか?」

「…………」

「早苗……」

「飛び降りないと約束しろ。じゃないと、このまま首を絞めるぞ」

「どっちを選んでも僕は死ぬじゃないか……」

「うるせえ。さっさと飛び降りないと約束しろ」

「……わかったよ」


 早苗は拘束……抱擁を解いた。

 振り返って、早苗の顔を見る。その表情は見てはいけないものを見たように、強ばっているように見えた。

 きっと、今の僕の顔は青ざめていて、小刻みに唇が震えているのだろう。今にも倒れてしまいそうなくらい、体調が悪そうに見えるはずだ。自分の肉体を他者の視線から見ることはできないが、僕にはわかった。


 だって……こんなにも苦しいのだから。


「なあ、早苗」

「…………」

「あのさ……優香里って、今……」

「和也」


 喉奥から絞り出した声が、早苗の荒い語調によって潰される。

 でも、その表情は女神のような慈愛で溢れていた。どんな罪も許してくれるような、僕を包んでくれるような、大きな優しさ。

 そんなものを見せられたら……なにも言えなくなってしまうではないか。

 

 それでも、


「早苗――」


 聞かなければ。僕には聞く義務がある。


「――優香里は……もう、?」


 声にして、やっと言葉の重みを感じた。

 こたえは既に目の前に提示されていたのだ。あのスマホに残った履歴には、優香里からの最後のメッセージが残っていた。


 遺書だった。


 あいつらしい、飾らない文面だった。自分が死ぬという事実、どういう病気だったのか、そして、さようならと激励。悲しいくらいに淡々としていた。見る人によっては、今までの関係と、自分が友人でいた意味を疑うことになるだろう。


 優香里が死んだ。本人がそう言っているのだから、まず間違いないだろう。


 でも、僕は信じられなかった。


 だって、直接聞いていないんだ。過程をすっ飛ばして、無機質な文だけを突きつけられても、はいそうですかと、信じられるはずがなかった。わかっている。こんなものは先伸ばしにしているだけだ。優香里はまだ生きている、そう思える時間を長くしているだけ。

 早苗の表情が曇る。大きく息を吸って、僕に真実を告げた。


「――そうだ」


 全身から力が抜ける。まるで、脊髄を引き抜かれたように、僕は地面に崩れ落ちた。頭の中を、沢山の思い出が駆け抜けていく。怒りの矛先を何処に向ければいいかわからなかった。だから、こんな過酷な運命をかした神を恨んだ。人間は都合のいい生き物だ。こういうときだけ仮初めの神様の存在を認知し、自分勝手に怨嗟を向ける。あまりにも愚かしい。

 

「和也……は和也が何処までを知ったのかはわからないよ」


 あたしではなく、私だった。口調も、乱暴なものではなく、おしとやかなものに変わっていた。僕の知らない間に流れた時間が、早苗を大人に変えたのだ。 


 ……なにかが心に引っ掛かった。


 でも、その違和感の正体を知ろうとする気力もなかった。


「辛いと思うよ。私にはあなたの痛みはわからない。自殺しようとするくらいなのか、それとも単なる気の迷いなのか……でも、辛いってことはわかる」


 早苗は僕の頭を胸に抱いてくれた。流れ落ちた涙は、地面に落ちず服に染み込んでいく。


「大丈夫。時間が痛みを忘れさせてくれるから」


 嘘だ……そう思った。でも、何故か明日になれば忘れられる、そう思った。そんな保証はないのに。


「だから……帰ろう、和也」


 早苗が僕の手を握ってくる。その手は走ってきたせいで汗ばんでいて、とてもじゃないが握りたいとは思えなかったが、心を揺さぶるような温もりがあった。温もりを堪能する暇も与えず、早苗は僕を引っ張っていく。


「もう、泣くなよ。ほら、水」

「……ありがとう――ぐぶっ」


 早苗がペットボトルを僕の口に突き刺す。水が喉に流れてくる。咳き込んでしまう。


「なにすんだよ⁉️」

「ほら、元気じゃない。さあ、早く帰って寝たら。明日、元気に起きてくればいいよ」


 ちょっとした怒りの炎は、早苗の笑顔で鎮火してしまった。僕は盛大にため息を吐く。


「わかったよ。でも、ゆっくり歩いてくれよ。転げ落ちでもしたら、次は死ぬかもしれないからな」

「うんうん。わかってるよ」


 そう言って僕の右隣に移動する早苗。


「これでいいでしょ?」

「そうだな」


 僕はゆっくりと自分のペースで歩いていく。僕を急かすのは暑さだけだった。

 歩いている間、早苗がなにか話題を振ってくることはなかった。僕も話しかけることはない。お互い、握った掌の温もりを堪能しているかのように。

 でも、その温もりはすぐに離れていった。


「――えっ……」


 温もりだけじゃなく、意識までが僕の体から離れていった。力を取り戻した体からは、再び力が抜ける。倒れかけた体を、早苗が受け止める。視界の中の早苗の顔の輪郭がぼやけて、瞼の闇に閉じられていった。

 最後に見た早苗の表情は深い悲しみに満ちていたように見えた。

 それは泣いていた僕に対してなのか、それとも……自分に対してなのか、それを理解する時間はもうない。


「――心配ないよ。もう、忘れられるから」


 意識が切り離される――


 *・*・*


 その直前に、ある言葉が脳内に響いた。


 ――この島で、私は何回も顔を会わせていますよ。


 違和感の正体に今になって気づく。歯車が微妙に噛み合っていないのだ。無理矢理回そうとすれば、壊れそうな大きな音をたてる。いくつもの疑問が剥がれかけた意識を離してくれない。


 優香里は死んだ。それなのに、どうして夏見は優香里に会ったと言ったのか? 嘘をつく理由も見当たらない。じゃあ、優香里は死んでいないのか? 早苗が嘘をついているのか?

 それと、今が四年後という点。僕は未来にタイムトラベルしたんじゃないかと考えたが、それだと説明できないことがある。


 早苗の言動だ。四年後の僕は優香里の死を知っているはずだ。それなのに、どうして早苗は僕に優香里の死を隠していたかのような反応だったのか、昔の自分を振る舞っていたのか。


 ――まるで、僕が過去から来ることを知っていたかのように。


 腑に落ちないことが多すぎる。どうして今まで気がつかなかったのか……優香里の死が衝撃的すぎたからか。最後の最後に思考をフル回転させた。

 

 だけど、なにも出てこなかった。できるのは、願うことだけだった。


 明日の僕が、この抜け出せない輪廻から、解放されることを。

 

 そして、僕の意識は消えてしまった。

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