002 昔を思い出す

 リビングに行くと、既にお母さんと早苗は昼ごはんを食べた後だった。

 机の上にはラップされた焼きそばがある。お母さんは料理は得意ではない。卵焼きを備長炭にできるし、ホットケーキを鉄板と同化させる能力を持っている。本人は自分が味音痴であり、料理が下手だということを自覚しているからまだいい。もし、自分の料理の殺傷能力を知らなければ、今頃僕はこの世にいないかもしれない。


 しかし、やはり母親という以上、料理ができないのは許せないらしい。その結果、


「――唯一できる焼きそばを極めてやる!」


 屋台を出せるんじゃないかと、絶賛できる腕前になった……焼きそばだけだが。

 だが、一日三食焼きそばは飽きてしまう。そのため、昼はお母さんが作り、朝と夜は僕か早苗が作っている。

 まだ、作ってそれほど時間が経っていないのか、焼きそばは冷めていなかった。ラップを捲ると、箸で食べ始める。

 台所からお母さんが食器を洗う音が聞こえてくる。縁側からは風に揺らされる風鈴の音が聞こえてくる。二つの音の絶妙なハーモニーに、僕は耳を傾けていた。


「――あっ⁉️」


 可愛い悲鳴と同時にパシャーン――なにかが割れるような音がした。

 見てみると、地面に真っ白な破片が散らばっていた。お母さんが皿を落としてしまったらしい。相変わらずドジな人だ。よくものを落とすし、よく小指を家具の角にぶつけて喚いたりする。


 今はそれよりも、


「お母さん⁉️ 大丈夫⁉️」


 すぐさま早苗が床にへたりこんだお母さんの元に駆け寄る。普段、見ない顔だった。まるで、目の前で人の自殺現場を目撃したときのように、目が血走っていた。


「えへへ……大丈夫だよ。ほら、少し指先が切れただけだから……」

「でも……なにがあるかわからないから……」


 早苗は慌てていた。お母さんの声も耳に届いていないように見える。本人が大丈夫って言ってるんだから……まあ、気持ちはわからんでもないが。早苗は他人の痛みに敏感なところがある。僕が転んで、膝から出血したときも、鬼の形相で心配してくれた。彼女は優しすぎるのだ。他人にウザがられるぐらいに。時に優しさは人を傷つける凶器になりえる。適切な距離を保つのは難しい。


「和也! 棚から救急箱を持ってきて!」

「へ?」

「早くしろ!」


 言われてやっと体が動いた。近くにあった棚を、下から開け始める。薬や、なにかの診断用紙、綿棒など様々なものがあったが、救急箱は見当たらなかった。順番に開けて、最後に一番上段を開けると、一つの救急箱が入っていった。最初から上を開ければよかったなと思いながら、救急箱を取り出す。


「……ん?」


 そこで気づいた。救急箱の下敷きになるように、僕のスマホと充電器が入っていた。どうしてこんなところにあるのだろうか? 記憶を探ってみるが、ここにしまったことも、ここに入れておく理由も、何一つわからなかった。


「早く!」

「わ、わかった」


 考えるのは後回しだ。僕はスマホと充電器をポケットに突っ込むと、迅速に早苗の元へ向かった。


 *・*・*


 強引に連れられた場所は駄菓子屋だった。

 母親の手当てを終えた後、早苗が用事があると言ったので「いってらっしゃい」と言ってあげたのだが、彼女はキョトンとした顔で、


「――はあ? お前も来るんだよ」


 僕に拒否権などないのだ。

 中には店主のお婆ちゃんはいなかったが……老女が三人談笑していた。駄菓子は子供が食べるものだというイメージが強い。確かに、子供が多いのだが、普通に大人が買いに来るときもある。食べるのが目的ではなく、談笑が目的のことが多い。人も少ないし、迷惑がかからないからいいのだが。


「あ、山下やましたさん!」


 早苗が声をかけた。すぐに老女たちから、耳を塞ぎたくなるような、異国の言葉にも似た言葉の津波が襲ってくる。飲み込まれたら終わりだ! 僕はすぐさま駄菓子屋の前のベンチの下に滑り込んだ。しかし、早苗は微動だにしない。彼女はこの津波に飲み込まれることなく、波に乗ることができてしまう。とても仲がいいのだ。

 別に老女たちが嫌いというわけではなく、むしろいい人たちなのだが、ずっと話していたいとは思えない。


 早苗は老女たちと、駄菓子屋の中で談笑を始める。取りあえず一安心だった。

 ベンチに座り、空を見上げる。灼熱の日光が容赦なく、照りつけてきた。チリーンチリーン――湿気を含んだ生ぬるい風が、垂れ下がった風鈴を奏でていく。

 どうせ、早苗は最低でも一時間は戻ってこない。だから、一眠りすることにした。僕は瞳を閉じる。


「――先輩?」

「……誰だ?」 


 眠りの世界に旅立つ直前、活発な声によって現実に連れ戻された。


「……あ?」

「おはようございます!」


 目の前には小さな少女の姿があった。

 白いワンピースを身に纏い、大きすぎる麦わら帽子を被っている。


「今日もいい天気ですね。こんな日は水遊びしたくなっちゃいますよね」

「……そうだな。だが、これくらいの歳になると恥ずかしくて中々できないなあ」

「そうですよね。ああ、小さい頃が懐かしい……」

「いや、お前なら大丈夫だろ」

「どういうことですか! 私がちんちくりんだって言いたいんですか! れっきとした高校生ですよ私!」

「え? そうなの?」

「失礼すぎますよ! 先輩!」


 涙目になる夏っぽい少女。微笑ましくなって、僕は彼女の頭から麦わら帽子を外し、優しく撫でた。


「はいはい、泣かない泣かない」 

「頭撫でないでください! こ、子供扱いするなあ!」


 激昂してポカポカと、僕の胸を叩いてくる。全く痛くないし、全く怖くない。僕は外した麦わら帽子を元に戻してやる。


「次やったら学校中に『秋山和也はロリコンです』って、言いふらしますからね」

「それは止めてくれ。もうしないから」


 自分をロリだと認めているじゃないかという突っ込みはしないでおいた。


「なら許します。まあ、それはいいとして……一つ質問していいですか?」

「ああ、いいぞ。だが、後で俺にも質問させてくれよ」

「いいですよ。じゃあ、質問です。先輩は夏休みにどうして駄菓子屋なんかに来てるんですか?」


 聞く必要があるのかと問いかけたくなる質問だった。僕の夏休みなのだから、どうしようが勝手だろう。


「駄菓子屋なんかって言うな」

「言葉の綾ってやつですよ。とにかく、なんでここにいるんですか?」

「うちの姉の散歩に付き合っただけだよ。本当は家で冷房が効いた部屋で惰眠を貪っていたかったよ」

「うわ、生活習慣病一直線の生活ですね。よかったじゃないですか。早苗さんに感謝しないと」

「……まあ、そうだな」


 外に出る方が明らかに健康的だった。


「で、質問はもう、終わりか?」

「はい! なんでも聞いていいですよ?」


 少女は笑う。聞きたいことはなかった。だから、少女を驚かせるような質問をしようと思った。全神経を脳に集中させ、言葉にする。


「スリーサイズ」

「こんな幼児体型を知ってどうするつもりですか?」

「自覚してんじゃねえか」

「そりゃそうですよ。この体型で私はモデル体型だなんて言ったら、精神科を進められるでしょうね」 


 開き直られた。完全に僕の敗北だった。


「……ま、それは嘘で」

「もう、質問したのでこたえませんよ」

「じゃあ、さっきの質問にこたえろや」

「うわー! セクハラです! セクハラ!」

「止めんか!」


 駄菓子屋の中にいる老女に聞こえてしまえば、僕の立場はこの島からなくなってしまう。高校を卒業するまでは、ここに暮らしていかないと。飢え死にするのは嫌だった。


「ふう、仕方ないのでもう一つ質問をしてもいい権利をあげます。さあ、どうぞ!」

「なんか、疲れた……」


 後輩にここまで翻弄されるとは。気を取り直して、僕は一度、大きく息を吸い込み、言葉を押し出した。


「――誰、君?」


 目の前の少女は見慣れなかった。しつこく話しかけてくるから適当にあわせたが……顔も名前も知らなかった。


「やっぱり、その質問しちゃいます?」

「ああ。それで、君は誰なんだ?」


 少女は腕を組んで、少し考えてから、


「初めまして、私の名前は神原夏見です!」


 自分を体全体で表現するように、両手を広げて自己紹介をする少女――神原夏見。

 しかし、やっぱりその名前に僕は聞き覚えがなかった。

 普段、後輩と関わる機会は少ないが、ここまで天真爛漫てんしんらんまんで可愛い女の子がいれば、男子の中で少しは話題にのぼる気がするのだが。


「……僕と面識は?」 


 もしかしたら覚えていないだけかもしれない、そう思って聞いてみる。 


「ないですよ。今日が初めてです」

「一度も?」

「いえ、今回で二度目です」

「……いや、初めてじゃないじゃん」

「はい。まあ、一度目は会話したわけではないので。印象も薄かったはずですし」

「そうなのか……まさか、君はこの島生まれじゃないのか?」

「はい。数ヵ月前に来ました」

「そうか」


 単純にコミュ力が凄まじいだけだった。

 しかし、一度しか会っていない僕に話しかける理由がわからないな。僕が覚えていないってことは、劇的な出会い方をしたわけでもなさそうだし。


「……すまん。やっぱり思い出せない。なんか重要な約束をしてたらごめん」

「いえいえ……約束なんてしてませんよ。でも」


 夏見はグッと顔を寄せる。

 仄かに夏の香りがした。


「これからはしっかりと私のことを覚えててくださると幸いです」


 ニコッと笑う夏見。その笑顔は微かに幼さを残していて……誰かの笑顔と重なった。

 そうだ、優香里に似ているんだ。笑顔も、服装も、雰囲気も。まるで、優香里に似せたみたいだった。僕が老眼になっていたら、声を聞いていなかったら、優香里だと勘違いしたまま接していただろう。


 その事に気づいたとき、心臓の奥に小さな痛みが走ったような気がした。


「でも、やっぱり、おかしいなあ。あれ以上に印象が残るような出来事もない気がしますし」 

「……なんか僕やらかしたの?」

「はい、そうですね。……ほんっと、しっかり責任を持って欲しいです」

「ごめんごめん、次会ったときはちゃんと覚えてるからさ」

「ええ……お願いしますよ」

「ああ」

「約束ですよ!」

「ああ」


 手を繋いで、約束を交わす。恥ずかしくて、僕は笑った。

 でも、何故か少女の表情は暗かった。

 どうしてそんな悲しそうなんだ? そう口にしようとする直前、


「――あ、もうこんな時間! ごめんね、おばあちゃん。弟が待ってるから」

「……あ」

「やっと終わったか」


 駄菓子屋の中から、早苗の声が聞こえた。

 彼女は幼児から高齢者まで幅広く会話を展開することができるという長所があるのだが、話を短くできないという短所でそれを相殺してしまっている。本人もなおそうと努力しているみたいだが、中々癖というものは矯正できないらしい。


「あ、あの、先輩!」

「ん?」

「私、用事があるので、もう帰ります。さようなら!」

「あ、ああ、じゃあな」


 夏見はこちらに手を振りながら、走り去っていった。

 嵐みたいな子だったな。好きなだけ僕の心をかき乱していって、何事もなかったように去っていく。その後ろ姿に、寂しさに似た感情が滲み出ているように見えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます