4章 動き出していた時間

001 何度目の朝


 目の前で和也が……死んだように眠っていた。


 ――交通事故らしい。


 静かに寝息をたてて、遊び疲れた子供のように眠っていた。一日中会話をしていたのだから、当然とも言えるか。彼の頑張りは泣きたくなるくらいに、ひしひしと伝わっていた。本当は水面下の戦いだ。いつだって、壊れたっておかしくない。壊れないようになってくれたからいいものの……素直に喜ぶことはできなかった。

 和也の目には、なにが映っているのだろうか? ふと気になって、《あたし》はその瞼を指であげてみた。眠りが深いのか、起きる気配はなかった。


 彼は周囲の生きている人間となにも変わらない。ただ一つ、重要なことが欠落しているだけで……


「ううん……優香里……」


 和也が寝言のようなものを言う。可愛い寝顔だった。

 

「おやすみ……和也」


 あたしは布団に潜り込む。

 でも、なかなか寝つけない。別に寝なくてもいいんじゃないかと思って、目を開ける。目の前には和也の寝顔があった。

 大好きな顔だった。

 自然と涙が布団を濡らして、ごく自然に唇が……和也の片頬に触れた。


 明日も……いい笑顔でいてね。そう願いながら。


 *・*・*


 ミーンミーン――


 蝉の鳴き声が、遠くから暑さを集めてくる。

 寝汗が肌と寝巻きの接着剤の役割を果たしているせいで、気怠さと気持ち悪さが覚醒しきっていない僕の体にまとわりついている。


「……起きるか」


 背伸びをすると、脊髄に染み付いていた睡魔が霧散したような気がした。


 カーテンを開けると、朝の日光が射し込み、簡素な部屋の床に短な列を作り出していた。窓を開けると、涼しい場所を探し求めるように、新鮮な風が部屋の中に吹き込んできた。


 今は……何月何日だっけ?

 記憶を掘り返して、今日が八月十三日であり、そして、夏休み真っ只中だということを思い出した。

 どうりで暑いわけだ。さっさと秋になり涼しくなって欲しいと思うが、夏休みを楽しみたいという気持ちもある。


「……取りあえず、朝ごはんを食べるか」


 起きようとすると、扉がコンコンと叩かれた。


「――和也。起きたか!」

「……早苗か。いいよ、入ってきて」


 入室を許可すると、蹴破るような勢いで扉が開く。

 現れた女性は何処か不機嫌そうだった。


「調子はどう? 朝の目覚めは?」

「良好だよ。元気元気」

「そう。それならいい」


 素っ気ない態度。

 僕の姉――秋山早苗は、面倒臭そうに僕を起こしに来た。

これには驚いた。僕の姉は休みの日には間、昼間に起きて、「朝ごはんちょうだい」と、寝ぼけながら起きてくるような人間だ。それなのに、どういう風の吹き回しか。朝早くに起きて、さらに弟に起床を促すなんて――


「もう、昼だぞ。早く起きろ」


 咄嗟に自分が和也であるかの確認をした。

 もしかしたら、早苗と入れ替わったんじゃないか、と。でなければ、僕が寝過ごすなんてあり得ないはず。心が入れ替わるようなことが起きなければ。しかし、目の前にいるのは早苗だ。僕は落胆する。


「……なにを落ち込んでんだよ」

「早苗に起こされる日が来るなんて、思っても見なかった……」 

「うわ! なに泣いてんだよ」

「成長したな、って……」


 早苗は僕よりも四歳歳上だ。しかし、周囲からはいつも僕が兄で、早苗が妹のように見られていたのだ。毎朝、僕が起こしていたし(その度に僕は殴られていた)、親がいないときの食事は僕が作っていた。


『ねえ、和也。あたし、将来ニートになる!』

『はあ? 馬鹿じゃねえの。どうやって生きてくんだよ。それで』

『和也に養って貰う。あ、食費はいいよ。一日三食スナック菓子を用意してくれればいいから。そのお金は、えーと、なんだっけ……そう、ユーチューバーってのになるよ、あたし。そのお金でご飯食べる。和也は部屋を一つだけ用意してくれればいいよ!』

『……まあ、いいけど。体を悪くしてもいいなら』

『うん!』

『……本当か? 寿命が半分になっても?』

『うん! あたしはね、つまらない八十年よりもね、楽しい四十年を生きたいの! だからね、楽しいと思えたら、悪魔にでも寿命を半分あげちゃうよ!』

『いいけど……人を殺すようなことはするなよ』

『うん! あ、でも暮らすなら、この島じゃなくて本土に暮らそうね』

『言われなくても、そのつもりだ』


 ……そんな会話も昨日のことのように思い出せる。

 子供の僕は、早苗のニート宣言を本気で受け止めていた。そして、本気で一緒に暮らそうと考えていた。

 結局、早苗は自立して、少し経てば大学を卒業して、本土の会社に就職する。結局、車の免許は取れずじまいだったが、彼女なら本土の生活にすぐ適応して、すぐ取得することだろう。まだ、決まったわけではないが、決まったも同然だ。ニートになるのが火を見るより明らかだった、あの頃が懐かしく感じる。

 平面だった胸も、今は富士山並みの高さを誇っている。兄弟故に、そこに魅力を感じることはないのだが、友人たちはその絶景を脳に焼きつけ、家に持ち帰り、抑えた欲求を放出しているらしい。早苗もそれは自覚しているようで、


 ――強姦されなければ、どうでもいい。


 懐が広いというべきなのか、おおらかだというべきなのか。

 そんな彼女が僕を起こすくらいに成長するなんて……これ以上に嬉しいことはなかった。


「……なに呆けてるんだ? 早く昼飯を食べに来い」

「了解!」


 早苗は敬礼する僕を無視して、部屋を出ていった。

 僕は枕元に畳んであった私服に着替えた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます