003 安らかな休息

「はい、粗茶ですが」

「いただきます」


 近くにある、海の家にお邪魔をした。口に流し込んだお茶が、喉に溜まった熱や砂ぼこりを洗い流して溶かしていく。


「それで、僕はなにを手伝えばいいんだ?」

「えーとね、ほら。盆のとき、毎回芸者さんが楽器を演奏してくれるでしょ? その舞台の設置とか、あとは薪のために木を集めたりとか、区別するための柵を設置したりとか、そんな感じの」

「……それ、今日一日でやるのか?」

「いや、流石にそれは無理だね。今日はお母さんとお父さんは、島の定例会議に参加してるから。だから、叔父さんとか叔母さんも、今日は来ないかな。学生のみんなは島の外に遊びに行ってたりして、島にはいないし」


 こめかみ辺りをかきながら海は言った。海はその美貌の甲斐があってか、友人は多い方だ。きっと、一緒に遊びにいかないか、と誘われただろう。高校生、それは遊び盛りの年頃だ。いくら海とて神ではない。そういう欲求を押さえつけてまで、仕事を全うする彼女には、感服せざるをえない。


「じゃあ、僕と海の二人だけか……やる意味あるのか、これ」

「はは……やらないよりはましだと思うよ。もし、やりたくないなら帰ってもいいけど」

「大丈夫だよ。限界までは手伝うから。力仕事だから僕を呼んだんだろう? 精一杯、手伝うよ」

「……ありがと」


 僕は一気にお茶を飲みきると、正面を見た。海が両手で優雅にお茶を飲んでいた。けれど、一つ一つの仕草が気をてらっていない。

 と、海の手元に一冊の本が置いてあることに気づく。六法全書も真っ青な厚さだ。角で人を殴れば一発であの世送りに出きるだろう。何百年前から持ち出してきたんじゃないかと疑うほどに、外見は古ぼけている。そこにとてつもない未知を感じ、思わず右手をその本に伸ばしていた。


「っ! だ、駄目だよ!」


 触れる直前に強くはたき落とされた、即座に本を抱えた海は、椅子を倒して壁に貼りつけになる。


「……なんだ、触ったら駄目だったか?」

「い、嫌でも駄目でもないけど」

「ふーん、じゃあ、それはなんなんだ? ……日記か?」


 小さい頃から海は日記を書くのが趣味だった。決して見せてくれることはなかったが、その積み重ねの結果がその厚さを産み出すなら、ただ感心するだけである。

 しかし、 


「ち、違うよ!」


 海は否定した。ただの照れ隠しかと思ったが、そうではないらしい。


「なら、それはなんなんだ?」

「えーとね……この神社の歴史が書いてある本。江戸時代からの記録が、全部ここに書いてあるの」

「へえ、そんな昔の書物が残ってるのか」

「うん……古すぎて所々文字が掠れて読めないけどね。元々は表紙にも絵が描かれてたみたいなんだけど、全部剥がれ落ちてるし、題名もわからない」

「ふーん、そんな大切なもの、どうして台所に持ってきてるんだ?」


 お茶でも溢したら悲惨なことになるだろうに。


「ふふっ! それはね……和也にこの神社の歴史を知って貰いたいと思ったからだよ!」


 海は書物を手に持ち、天井に向かって突き上げると、嬉しそうにそう叫んだ。


「神社の歴史?」

「うん。和也、全くこの神社のこと知らないでしょ? だからね、いい機会だと思うから少しでもこの神社のことを知ってて欲しいなって思って……知りたくない?」

「うん、知りたくない」


 海が漫画の登場人物のようにずっこける。僕の反応を予測していなかったみたいだ。

 神社の歴史なんて知らなくたっていいだろう、というのが僕の本音だ。国語の漢文や歴史的仮名遣い、社会の歴史みたいに、大人になって社会というコミュニティに組み込まれた際、必要になるようなものじゃないからだ。知らなくたって生きていけるし、勉強するくらいなら、その時間を大人への準備にあてた方が、効率的でいいだろう。

 しかし、海は譲らなかった。


「お、面白いんだよ。確かに面倒臭いって気持ちはわかるけど、一旦聞き出したら止まらないんだって!」

「だとしても聞かん」

「い、今なら細部まで詳しく説明しちゃうよ! しかも無料でだよ! 夏休みの自由研究にもうってつけ!」

「通販か。まず、宿題に自由研究なんてないし」

「お願いです~! 私、和也に歴史を知って貰わないと、今月の暮らしが……」

「嘘をつくな」


 海は空気が抜けたみたいに落ち込んだ。世界が終わるわけでもないのに、「もう駄目だ」と、空に向かって呟いている。ああ、くそ。


「……わかったよ。聞けばいいんだろう」

「――本当に? 聞いてくれるの?」

「ああ、聞いてやるから。でも、なるべく短く、かつ、わかりやすくな。僕は記憶力に自信がないから」

「そうだね……記憶力がないんだもんね。……話す必要あるのかな」

「否定してくれよ。失礼すぎるわ」

「ご、ごめん。そうだね、話すって決めたんだからね。あ、そうそう」


 なにか思い出したのか、突拍子もなく部屋を出ていく海。ご丁寧に書物を抱えて。そこまでして見られたくないのだろうか。ネタバレをされないようにと、僕を楽しませるための配慮なのかもしれないが。

 一分も経たずして、上からドタドタと大きな足音が響く。すぐに海は戻ってきた。その手には書物とは別の、一冊の薄い本と鉛筆が握られていた。


「はい、これ」

「……なんで?」

「日記だよ日記! 和也も書いてみるといいよ。自分の過去とかを振り返るときに便利だからさ」

「……その台詞、何百回と聞いたな」


 幼い頃から言われ続けていることだ。その度、僕は「書かない」と言っているのだが、海はよくわからないところで頑固な性格で、顔を会わせる度に、ノートや日記帳を僕に渡して「書いてみたら」と、進めてきた。最初は適当にあしらっていたのだが、あまりにもしつこすぎたので、思わず貰った日記帳を目の前で破り捨てたことがある。少しやり過ぎたと、今でも反省している。けれど、海は泣き顔を見せることもなかったし、僕を責めるようなことはしなかった。代わりに謝罪だけが返ってきた。幼いながらに自分の罪を認めた。だから、僕は自らを罰することにしたのだ。海の日記の提案に対して、暴力や破壊を伴わないようにすると。

 まあ、否定はするが。


「別に毎日書かなくたっていいんだよ。使い道は和也次第。これから毎日書くのもありだし、今日の歴史の授業のメモだけでもいい。だから……書いてみない?」

「……まあ、その程度なら……」

「本当? やったー!」


 跳び跳ねて喜びを体全体で表現する海。長年の夢を叶えたときのように……いや、この瞬間、海の夢は実現したというのか。僕に日記を書かせる程度のことを夢といっていいのかはわからないけど。


「じゃあ、今から話すね! あ、日付はちゃんと書いておいてね!」

「はいはい」 


 僕は日記帳の一番最初の見開き一頁の右上に『八月十三日』と書いた。海はそれを確認して、饒舌じょうぜつに話し出す。僕は得意気な海の顔を頬杖をついて眺めながら、鉛筆を紙の上に走らせた。

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