007 告白

 グラウンドに戻り、すぐに練習を再開した。


 最初は支えがないと倒れてしまっていたのに、今は支えがなくても前に進めるようになっていた。あとは進める距離を長くするだけだ。

 既に空は茜色に染まっていた。カラスが空でじゃれあい、十七時の帰りを告げる蛍が流れ、買い物帰りの女性の笑い声がこだまする。

 人々がそれぞれの時間を満喫する中、僕らは自転車の練習で同じ時間を共有していた。補助輪の役目が必要なくなった今、僕はもうここにいる理由はなくなったのだが、別れを告げることなく、何度も止まっては前に進むを繰り返す夏見を近くで眺めていた。夏見がそれを咎めることはなかった。


 茜色を追いかけるように紫色の闇が空を侵食し始めた頃には、転ぶことはなくなった。まだ、フラフラとしているが、距離も徐々に伸びてきている。最初は暗かった夏見の表情も、それにつれて清廉な笑顔を取り戻していった。


「……どうだ?」

「はい! 上手になりましたよ! ……でも、乗れた乗れないの基準がわかりませんね」


 確かに基準がわからない。転ばないように漕げればいいのか、それとも、走れる距離で決めるのか。


「先輩が決めてくださーい!」

「僕が? うーん……」


 僕は夏見を見やる。半日にも及ぶ練習のおかげで、既に転ばないという低い基準は余裕でクリアしている。心配なのは漕げる距離だけだ。夏見は過去のトラウマを克服したいという理由で、僕を利用してまで、夜になるまで練習に励んでいる。どうして今になって思い立ったのかは知らない……ただの憶測だが、夏見はこの島を一周してみたかったんじゃないだろうか。


 ――私はこの島が大好きですよ。


 その言葉が嘘偽りのない純粋な言葉だったなら、自分の好きな場所をさらに知りたいと思うのは当然じゃなかろうか。

 空想の中に彼女を浮かべてみた。


 ――囁く波の音、優しい動物の鳴き声、色とりどりの植物。島には生命が溢れていた。運命に身を任せたまま、ただ生きている。彼女は自転車を漕ぎながら、瞳の中を過ぎ去っていく彼らに憧れを抑えきれない。雨にうたれ、風に吹かれ、日に日に姿を変えながらも、彼らは決して己の存在を否定することも、消すこともない。


 彼らの世界に善悪などないのだ。本能のまま、ただ自分のためだけに生きている。

 自分を咎める者などいない。その中を悠然と駆け巡る。なんと幸せなことだろうか。


「……いやいや、僕はこの島好きじゃないし」


 なんて言いながらも、僕はこの島を嫌いになりきれていないらしい。こんな幸せな想像ができてしまうくらいだから。


「先輩! 早く決めてくださいよ!」


 夏見は立ち止まって叫ぶ。真っ白なワンピースに付着した汚れは、彼女の努力の証でもある。

 空想の中で彼女は自転車に乗りながら、これ以上ない幸せな笑顔を浮かべていた。心の底から、この島の景色を堪能しているように。


「――じゃあ、この校庭を二・五周してみろよ」


 一周は確か四百メートル位だったはずだ。つまり、一キロメートルを走れということ。それくらい漕げれば、この島を一周することくらい、容易いはずだ。


 夏見は「了解です!」と、こちらに敬礼して、片足をペダルに置く。その表情は真剣そのものだった。


「あ、でもチャンスは一回きりな。一回でも転けたら今日は終わり」

「え~、たった一回ですか?」

「ああ、別に失敗してもいいけどな。失敗したら明日も手伝ってやるからよ。でも、なるべく外には出たくないから、今日で成功させてくれー」

「……わかりましたっ!」


 さらに真剣な表情になった。一呼吸置いた後、地面を蹴りあげるように漕ぎ始める。順調な滑り出し。曲がるときに若干ふらつくものの、直線は糸を引くように真っ直ぐ進めている。もう、心配はなさそうだ。


 あっという間に二週目を終えて、あと半周になった。


「後少しだ! 頑張れ――っ!」


 応援の叫びが、声にならない悲鳴に変わる。安定したかに見えたが、突如夏見はバランスを崩して、コースから外れてしまったのだ。体勢が崩れ、空中に放り出される。まるで、時間の流れが遅くなったように感じた。遠くから見ていた僕は眺めることしかできなくて、


「――――――っ!」


 受け身もとれぬまま、背中から地面に墜落した。舞い上がった砂埃が夏見の姿を隠してしまう。次の瞬間には、仰臥ふくがして動かなくなっている夏見の姿があった。最悪の可能性が脳裏を掠める。首でも折れて、体が不随にでもなったりしてしまえば、彼女の人生は劇的に悪い方向へ変化してしまう。


 心臓の鼓動が早くなり、冷や汗が汗腺から嫌というほど溢れ出す。

 突然のアクシデントに思考が回らず、立ち尽くしていると、夏見の肩がピクリと動いた気がした。それで我にかえった。急いで夏見の元に駆け寄る。 


「おい、夏見! 大丈夫か!」


 両肩を掴み、強く揺さぶってみるが、魂が抜けたように動かない。この島には大きな病院はなく、小さな診療所が一つあるだけだ。風邪や腹痛程度なら見てくれるだろうが、首を骨折するような大事故は手に負えない。島外の病院に助けを求めることもできるが、不運にも通信手段がなく、誰かを呼ぶことができない。方法を考え、切り捨てる度に、朧気な最悪の未来の輪郭が、濃くなっていく。湿っぽい暑さと、蝉の大合唱が、不安をさらに肥大化させた。


「…………せん、ぱい」


 しかし、その声で膨れ上がり胸を圧迫していた不安は、簡単に消し飛んでしまった。夏見が目を開けていた。


「だ、大丈夫か?」

「はい。首なんか折れてませんよ。ちょっと、頭を打っただけですから……」

「そうか……よかったよ」


 破顔する夏見を見て、安心する。痛みで潤んだ双眼は、覗き込む僕の顔ではなく、無数の星が散りばめられた夜空に向けられていた。


「……先輩。自転車に集中してて気づかなかったんですけど……今日は空が綺麗ですよ」

「そうか」

「……一緒に見ませんか?」

「いいのか?」

「もちろんです。生まれてこのかた、私の隣は空席なんですよ」

「じゃあ、遠慮なく」


 僕は隣に寝そべる。瞳の中に映るのは満点の星空だけになる。外灯も、高い建造物の少ないこの島の夜景は、絶対に人工的に作ることはできないほど美しく、思わず憧憬してしまった。


 蛆虫うじむしが沸いているような模様の月が、己の存在を主張するように強く輝いている。そのせいか、周囲の星々は塗りつぶされて見えなくなっていた。

 月は太陽の光を利用して、光を放っていると学んだ。互いが互いを助け合う。夜明けも朝日も、決めるのはいつもこの二つだけなのだ。この空は誰のものでもない。太陽と月……そして、子供のように輝く星々のものなのだ。


「……先輩、月の模様って、本当に兎に見えますよね」

「……そう言われればそう見えないこともないな。あれだろ? 兎が餅をついてるんだろ?」

「みたいですね……はあ、食べてみたいですよね」

「そうだな。日本のやつとどんな感じに違うの――」

「月の兎」

「……そっちかよ」

「あと! 月ってチーズでできてるって話も聞いたことありますよ! どんな味なんでしょうね!」

「食い意地はりすぎだろ……」


 大量の駄菓子を、ここに来るまでに完食しきってしまうような女だ。それに、普段なら夕食を食べ終わるような時間帯だ。それを踏まえても、女子にしては食い意地がありすぎる気もするが……まあ、いいか。


「あっ! 先輩! 流れ星ですよ、流れ星です!」

「本当だな」


 はしゃぐ夏見の声に耳を傾けながら、今日一日を振り返ってみた。振り回されたきらいもあるが、思い返せば夏見との時間は、まるで流星のようだった。目が眩むほど輝いているのに、その時間は儚いほどに短い。夜空を走り去っていく流れ星も、三秒もせずに塵となって闇に溶けていった。


「なんか、願いでもかけてみたらどうだ?」

「え?」

「ほら、言うだろ? 流れ星が消えるまでに三回願い事をすると、その願いが叶うってやつ」


 あんな短時間で三回も願うなんて、日本語では不可能だろうが。でも、この雰囲気に浸っていたくて、柄にもなく、そんなロマンスに溢れたようなことを言ってみた。


「そうですね……やってみます!」


 そう言うと、夏見は立ち上がった。僕も上半身を起き上がらせ、胡座をかいだ。夏見は一回息を吐き出すと、全神経を目に集中させ、一心不乱に星が流れるのを待っていた。別に、そんなにやる気を出さなくてもいいのに……と、思っていると、流れ星が一つ流れた。夏見の口が開いていく、


「――きっと、先輩は忘れているのでしょう」

「……はあ?」


 夏見の口ぶりはゆっくりで、願い事とは思えない内容だった。流星は言い切る前には既に消え去っていた。困惑する僕を尻目に、二つ目の流星が流れる。


「けれど、私にとってはとても大きなことでした。あの初めての出会いから、私は先輩のことが頭から離れませんでした」


 二つ目の流星が消えたというのに、夏見は言葉を続けた。なんだこれは? 願いというより、僕に対しての……


「きっと……先輩が私を忘れても、振ったとしても……私は先輩に何度も恋をします。そのくらい――」


 夏見がこちらに振り返る。背後を、また一つ、星が降り注いだ。


「――私は先輩のことが大好きです!」


 星光のスポットライトのせいか、夏見の笑顔が天使のように見えた。いや、違う。天使が笑っているように見えた。僕の存在が埋もれてしまうんじゃないかという、絶大の破壊力を持った一撃は、僕の心臓を鷲掴みにした。情けないことに、腰が抜けたように、僕は立ち上がることも、告白に対して、気の利いた台詞を吐くこともできなかった。

「だから……その……私の彼氏になってくれませんか!」

「…………」

「あの……駄目、ですか?」


 さっきまでの威勢は何処に行ったのか。彼女は弱々しい声で僕に問いを重ねた。目尻に微量の涙が浮かんでいる。

 振られても、と言いながらも、実際は不安ではち切れんばかりなのかもしれない。


「……あのなあ……」


 僕はなんとか腰をあげて、震えている手を優しく握った。忸怩じくじが血液と共に昇ってくる。きっと、今の僕を撮影した映像を見返してみたら、腹が捩れるくらいに笑うだろう。それくらい、情けない表情をしているという自覚があった。けれど、それでもいい。今、僕がやるべきことはただ一つだけだ。

 僕は空いていた手で頭をかきながら、


「流れ星に三回願うんだろう? 一回だけでいいのか?」

「い、いいんですよ! 別に……流れ星じゃなくても、先輩が叶えてくれるので」


 目をあわせると、すぐに逸らされた。


「そうか……それなら、叶えてやらないとな」 

「……つまり?」


 上目遣いで僕を見上げる夏見。僕は大きく息を吸って、喉に出掛かった言葉を押し出した。


「僕からもお願いするよ。……僕の――彼女に、なってくれ」


 片言になった。締まらない男め……

 けれど、夏見には十分だったようで、はにかんだ笑顔を見せてくれた。


 それからは夏か、夜空か、なにかの魔法にかかったみたいだった。夏見の全てが愛しく思えて、理性が吹き飛んでしまいそうだった。すぐ届く位置に、真っ赤に熟れた薄い唇がある。まるで、二人の間に引力があるかのように、唇が近づいていった。

 夏見が僕の肩に両手を置く。一回り身長が低い夏見は、つま先立ちで目を閉じている。僕は右手を後頭部に回して……強引に近い形で唇を押しつけた。

 僕らを祝福するように、流星が瞬いた。

 永遠にも似た一秒が過ぎて、僕は唇を離した。


「明日はどうする?」

「……明日、ですか?」

「ああ。ほら、今日は自転車に乗れなかっただろ。だから、明日はどうするかってこと。練習するか? 疲れてるのなら別に明後日でも明明後日でもいいけど、どっちにしても集合する場所は決めておかないと駄目だろう?」

「…………」


 夏見は驚いているのか、目を大きく見開いた。でも、すぐに彼女らしい笑顔に戻って、


「そうですね。じゃあ、明日会いましょうか。でも、自転車の練習で疲れてるので……三日後、三日後ならいいですか」

「いいよ。どうせ、暇だしな。それで集合場所は何処にする?」

「そうですね……今日みたいに私が先輩を迎えにいきますよ!」

「いいのか……じゃあ、頼むよ」

「はい!」


 楽しさを体現する彼女は、どれだけ見ても飽きないと思った。


 パシャリ――夏見は持っていたカメラで、二人を結んだ夜空を撮影した。

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