006 辛い過去

 一時間に渡って練習を続けた。倒れそうになったら僕が支え、余裕があれば前に進む。それでもグラウンドの半分程度進めるくらいだったが、最初よりは余裕が持てるようになり、漕ぐときの感覚を吸収していくことができたみたいだ。


 喉が乾いたので自転車を門の陰に放置し、近くの自動販売機でスポーツ飲料を買った(勿論、僕が払った)。見た目以上に精神が磨り減っていたのか、夏見は一気に半分くらい飲み干してしまった。


「ぷはーっ! 運動した後のスポドリは最高ですね!」

「同意する」


 夏見はタオルで滴る汗を拭き取っていた。汗で服が透けて下着が見える光景は、夏の風物詩と言っていいと思うのだ。日光で鋭く光る汗、そして袖巻くりがあればなおいい。つまり、今この光景は絶景だということだ。修辞の言葉など必要としないくらいに。必然と、スポドリを飲む速さも加速する。


「……目がいやらしいんですが」

「気のせいだ」


 僕は空になったペットボトルをゴミ箱に投げる。放物線を描き、飛び散った水分が小さな虹を一瞬顕現させて、ゴミ箱の中にすっぽりと入った。


「そろそろ行くぞ」

「そうですね」


 残りを一気に飲み下すと、夏見は丁寧にゴミ箱の中にペットボトルをいれた。

 先に歩いていた僕の横に咄嗟に移動すると、同じ速さで歩き出す。僕の方が夏見のよりも歩幅が長いのだが、従順な犬のようについてきた。

 特に話す話題もないので、無言のまま僕らは歩いた。静寂は嫌いじゃなかった。でも、なぜか今はとても苦しかった。


「……なあ、夏見」話の内容も決めていないのに、思わず名前を呼んでしまった。「一つ聞いていいか」

「なんです?」


 歩みを止めて、夏見が見つめてくる。表情は崩さなかったが、内心はどうしようもない焦燥感に駆られていた。ここで「なんでもない」と言ってしまえばどうなるだろうか。話しかける前よりも重い沈黙が空気を犯してしまうだろう。別段、会話が上手くない僕は、当たり障りのない話題を振ろうと模索して、


「どうして夏見は自転車に乗ろうと思ったんだ?」


 考えてもいない疑問が、自然と口から吐き出された。すると、どうしたことだろうか。少しだけ心が軽くなったような気がした。最初の一言を追いかけるように、言葉が次々と溢れ出す。


「ほら、自転車って普通小学生、もしくはそれよりも前に練習するだろう? 親だって普通そうする。夏見の両親はさせなかったのか?」


 僕は困惑した。一つはどうして考えてもいなかった質問を吐いてしまったのか。自分のことだというのに不思議だった。まるで……自分以外の誰かが話しているみたいだったから。

 夏見は驚愕から、悲しいとも困惑ともとれる面持ちに移ろう。質問の撤回をしようとする機先を制し、夏見が言葉を挟んできた。


「恐くなったからですよ」


 返答は予想とは違うものだった。


「小さい頃にですね、自転車は知り合いから貰ったんですよ。他にやる遊びもなかったので、ずっと自転車で駆け回っていました。私にとって自転車が唯一と言っていい自慢だったんですよ。ほら、子供って純粋じゃないですか。親の言葉とかそのまま受け取っちゃうんですよね。私の家は貧乏だったので、よく馬鹿にされました。私もあの頃は純粋だったので……凄く悔しかったんです。だから、他の同級生ができないことをしてやろうと思ったんですよ。それでですね……少し調子に乗って片手運転してみたりとか、両足を片方のペダルに乗せて走ったりしてたんですね。そしたら、みんな「上手いね」って誉めてくれたんですよ。まあ、親には「危ない」って怒られたんですけどね。あはは」


 懐かしむように訥々とつとつと夏見は話し出す。


「でも、それで威張れるのってほんと短期間だったんですよ。小学校在籍中にはみんな乗れるようになっていますからね。私は誇れるものがなくなって、また苛められるのかなって思ったんですけど、そうはなりませんでした。それもそうですね。私には友達なんかいなかったんですから。全く、可愛いげのない子供だったと思いますよ。私はその事実に辟易して……ふらふらと自転車を漕いでたら――」


 夏見の目が伏し目がちになる。小さな小さな唇が紡いだ言葉は、


「――


 重たい意味を持った言葉だった。石になる僕を、夏見は自嘲するように笑って、さらに言葉を紡いでいく。


「幸い身体面の後遺症はなかったみたいでよかったです。足が不自由になったりとか、骨が歪んだり、とか。まあ、それ以外の部分で後遺症があったんですが。本当に悲しかったですよ。でも、私には悲しむ権利なんてないんだって思いました。だって……私の前方不注意が原因ですよ。それなのに、責めるようなことは言ってくれませんし、断罪する人もいませんでした。私のせいで……多くの人を困らせたり、苦しめたりしました」


 他人事のように話す夏見に、多少の違和を感じた。

 僕は慰めと同情の言葉を探した。けれど、僕が選んだ言葉は……追求だった。


「……そのせいで自転車に乗れなくなったのか」

「ですね。トラウマになっちゃったみたいです。自転車に乗ると、体が動かなくなるんですよ。恐くて、不安で仕方がなくなるんです。……でも、」


 幼き頃のトラウマは、恐怖を餌にして強く本人の心に根を張る。多感な時期なら尚更だ。例えその記憶を忘却したとしても、体にはしっかりと染み付いている。簡単には克服できない……もしかすれば一生背負うことになるかもしれない、深い傷。それでも果敢にトラウマに立ち向かっていく夏見の姿は、復讐に燃える殺人鬼を想起させた。


「でも……先輩がいると、なんだか安心するんですよ。先輩が傍にいててくれれば、私は恐くない……そう、思えるんです」


 悄然しょうぜんとした言葉は、若干の狂気を孕んでいるように思えた。

 蝉の鳴き声は何処か遠く彼方へと飛ばされ、僕の耳には届かない。先程までの雰囲気は一掃され、また別の息苦しい沈黙が空気を支配する。


「……あはは、こんな暗い話をしてても意味ないですよね。ほら! 早く自転車に乗る練習をしましょう!」


 夏見の明るい言葉が、ほんの少しだけ空気を弛緩しかんさせた。


 蝉の声がまた戻ってくる。

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