005 自転車の練習

「とうちゃーく!」


 連れてこられた場所は島に一つしかない小学校だった。夏休みということもあって、人気はなく、グラウンドでは荒んだ風が砂を巻き上げているだけだった。

 なにをするのか? そんな疑問は後回しだと、夏見は閉められた校門を跨いで向こう側に渡ろうとしている。純白の下着が見えたが、本人は気づいていない様子。女子は男子の卑猥ひわいな視線に気づいているとよく聞くが、全ての視線に気づいているわけではないだろう。十割の内、多くても三割気づいていればいい方だと思う。だから、僕は気づかれない七割にかけて夏見の下着を凝視する。


「……変態ですね」

「すまんな」


 蔑むように僕を見下してくる。これは全て僕が悪い。

 夏見が着地しているのを確認してから、僕も門を跨いでグラウンドに降りた。幸い先生もおらず、通行人もいなかった。


「先輩、少し待っててくださいね!」


 そう言うと、夏見はプールの方に走り出した。一分ほどで夏見は戻ってきた……自転車に乗って。

 何処から持ってきたんだ、という疑問は一瞬で脳外へ吹き飛んだ。こちらに向かう中途で、盛大に夏見が転んだからだ。受け身もとらずに地面に叩きつけられた夏見は伏臥ふくがして、こと切れたように動かなくなった。

 打ち所が悪かったのかと心配になり、駆け寄ろうとすると、生まれたての小鹿のように夏見は立ち上がった。砂で汚れながらも、再度自転車に乗るが、ふらふらとしていて危なっかしい。案の定、五メートルも進めずに、地面に投げ出される。

 七転び八起きの精神で何回も挑戦するのだが、繰り返し映像を見ているみたいに同じような転び方をし、殆ど前へ進めていなかった。このままでは埒があかないので、僕の方から夏見に会いに行った。


 地面で判子になっている夏見に話しかける。


「……お前、何歳だったっけ?」

「十六歳ですけど」

「その年齢で自転車に乗れないのはどうかと思うんだが」


 僕の指摘に、夏見は頬を紅潮させる。


「べ、別に自転車は小学生になるまでに乗れるようにしないといけないなんてルールはないじゃないですか! 人それぞれですよ! だから、きっと乗れない人だって世界中を回れば一人は……いる、はず……です……」


 苦し紛れに言い訳するが、それが通用しないことは本人にもわかっているようで、語尾が空気が抜けたように小さくなっていった。


「……つまり、僕に自転車に乗る練習を手伝いをしてくれと?」 

「さすが先輩です! その通りです! 先輩が言ったように、この年齢で自転車に乗れないのは流石に恥ずかしいじゃないですか」

「そうだな。……で、いつから準備をしてたんだ、企んでたんだ?」

「へ? いやあ、今日思いついただけですよー!」

「ふーん。じゃあ、どうして学校に自分の自転車があんの?」

「えーと……それは……」


 夏見は言葉を濁す。今日見た中で一番朱色が濃かった。身体中の血液が顔に集まったんじゃないかというくらいだった。僕はため息を盛大に吐いた。


「……わかったよ。手伝うよ」

「あ、ありがとうございます!」


 砂の汚れでは隠せないほどの、明るさに溢れた笑顔を見せた。ここまで喜怒哀楽が激しいと、こちらとしてはかなり接しやすい……その分、疲れるのだが。

 立ち上がって服についた砂を払うと、サドルを跨ぐ。両足が地面についているというのに、体は左右に揺れている。僕はその後ろにまわって、荷台の部分を持つ。


「ぜっ―――ったいに! 離さないでくださいよ!」

「それは僕に離せよと言ってるのか?」

「違いますよ⁉️ ネタ振りじゃないですよ⁉️」

「引き立てが上手いな」

「だ~か~ら~! 違いますよ!」


 ギャーギャー喚く夏見。宥めるのも時間の無駄なので、適当に頭を撫でる。それだけで夏見は子犬のように大人しくなった。なんか、扱いに慣れたような気がする。 

 夏見は両足をペダルに乗せる。僕は倒れないように、でも、夏見が自分でバランスを取る力が鍛えられるように、ある程度の力で自転車を支える。恐怖心が邪魔しているのか、中々前に進めないでいる夏見。気休め程度に、「頑張れよー、夏見」と抑揚のない声で応援すると、親のかたきを見たような驚きの表情でこちらを一瞥いちべつした。なんだ、僕が応援したのがそんなに意外か。しかし、それが効いたのか、一回転だけペダルを回すことができた。


 真夏の太陽の下、高校の先輩と後輩が自転車の練習……これは青春と呼んでいいのだろうか? それなりに楽しいからいいのだけれど。

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