002 既視感のある朝

 部屋を出ると、拳一個分の距離に麦わら帽子が現れた。つばが目に入りそうな気がして、思わず仰け反ってしまう。


「……ずっと待ってたのか?」

「いえ、偶然ですよ! 先輩がパジャマを脱いで着替える時間を計算して、もうそろそろかなあ、って思っただけですから」

「必然じゃねえか。なんで、僕の着替えの時間を計算できるんだよ。お前ストーカーか? 警察呼ぶぞ」

「まさか、そんなわけないですよ。しようと思えば簡単にできますけどね。この島の警察なんて機能してないようなもんですから」

「確かにな」


 部屋の前で会話を始めてしまう……と、


「――あ、おはよう、和ちゃん」 


 そこから、顔を覗かせていた女性が、舌足らずな声で僕に挨拶をしてきた。


「おはよう――お母さん」


 僕の母親――秋山紬。

 夏見も中学生に見えないこともないが、挨拶をしてきた女性はそれよりも小さく見え、下手したら小学生に見間違えそうだ。だが、慈愛に満ちた表情で、全てを包容してくれるような安心感をくれる。


「おはようございます! 紬さん!」

「おはよう……って、さっきも挨拶したけどね」 

「ははっ! そうでしたね」 

「きゃっ! ちょっと、抱きつかないの!」

「えへへ!」


 じゃれあう二人。これには面食らった。二人は普通に会話をしていたのだ。いつの間にこの二人は仲が良くなったんだ。


「お母さん、お腹空いた。ご飯は?」

「ん? 作ってないよ」

「え?」

「先輩!」


 夏見が僕の手を掴む。


「外に行きましょう!」

「は? いや、だから、朝ごはんを……」

「いってらっしゃーい!」

「お母さん⁉️」

「いってきまーす!」


 笑顔で手を振るお母さんに見送られて、僕は夏見に強引に引っ張られて、外に出された。。真夏の真っ赤な太陽がジリジリと照りつけてくる。


「……暑いな」


 外に出ただけで、汗腺から汗が染み出る。太陽は色がわからなくなるほど、強い光を発している。袖で汗を拭うと、パシャ――という、シャッター音が響いた。見てみると、夏見がこちらにカメラを向けていた。奇怪すぎる行動に、また驚いてしまう。彼女は何事もなかったかのように、自分のスマホを見る。


「……なにしてるんだ」

「ん? 時間を確認しただけですよ」

「いや、多分、その前」

「写真を撮ったんですよ、先輩の。今の先輩、かなりかっこよかったですよ」

「いや、それはわかったんだが。どうして、撮ったんだ?」

「だから、かっこよかったからですよ。あ、ツイッ○ーに投稿しますね」

「待てや」


 僕の制止を振り切り、画面に大きく僕の写真が貼られ、瞬く間にいいねの数が増えていく。最近の科学の進歩は著しく、カメラで撮った写真をスマホに移転させることも、簡単にできるようになっている。

 人間という生き物にしかない自己顕示欲という感情は、留まることを知らない。世間で批判されると容易に予想できる内容のものを平気で発信したり、また、私欲を満たすためだけに赤の他人を勝手に利用したりする。その感性が僕には一滴もわからないし、わかりたくもない。たまに覗いてみたりするが、彼らの呟きや載せている画像の一つ一つが滑稽こっけいにしか思えなかった。


 なんかムカムカしてきた。そもそも、勝手に人の顔をネット上にのせるなんて、肖像権の侵害だろう。


「……確認してやる」


 僕はポケットの中に手を突っ込む。スマホで確認しようと思ったから……だが、


「……あれ?」


 ポケットの中にスマホはなかった。着替えたときに持ってきたと思っていたが、持ってきてなかったみたいだ。


「すまん、少し待っていてくれないか?」

「? どうしてですか?」

「スマホを忘れたんだよ。だから、取りにいかせてくれ」

「駄目です」


 家に戻ろうとすると、夏見が目の前に立ちはだかる。


「……いや、なんでだよ」

「早く行きたいんですよ!」

「一分もかからないぞ?」

「い、一分も惜しいんですよ! だから、早く行きましょう!」


 僕の袖を引っ張る夏見。別にそれほど急ぐこともないだろう、津波が押し寄せてるわけでもないのに。一分が惜しいというのに、僕を引き留めるのに一分以上を要している夏見に、疑問を抱き始めていると、


「――うるさいなあ。近所迷惑だぞ。隣のおばさんうるさいんだから」


 隣の車庫から気だるげな声と共に、一人の女性が優雅に現れる。


「あ、おはよう、早苗」

「ああ、おはよう」


 目の前に現れた女性が髪をかきあげる。強い陽光で、金色の長い髪が淡く煌めく。

 秋山早苗――僕の義理の姉だ。


「お、おはようございます」

「……おはよう」


 挨拶を交わす二人。早苗とも知り合いなのかこの騒音後輩は、と感心する。だが、やっぱりというか、二人の間に流れる空気はぎこちなく、雰囲気もかたい。いくら意思疏通能力が高くても、早苗と友人のような真柄になるのには、もっと時間が必要なようだ。

 夏見によって作られた喧騒けんそうが静寂に飲み込まれる。耳の中で蝉の声の余韻が反響していた。二人は時間が止まったように、視線を絡ませたまま微動だにしない。


「……あのさ、早苗は今から何処に行くの?」


 このままではらちがあかないと、静寂を破る。絡まっていた視線がほどけ、一気に僕に集中する。


「……守島神社に行くだけだ」

「? なんで?」

「別にどうでもいいだろ? あたしがどうしようが、全部あたしの勝手だろう」

「まあ、そうだけどさ……あんな場所に行くなら自転車よりも車の方がいいと思うけど」


 守島神社はここからだと結構距離がある。それに、この炎天下の中を自転車で駆けるなんて自殺行為だ。


「別に……そんなのあたしの勝手だろ? それに、あたしは免許持ってないし」

「そうだけどさ……って、そういえばそうか」

「じゃあ、あたしは出掛けてくる。くれぐれも熱中症とかで倒れるんじゃないぞ。あと、早めに家に帰ってこい」

「わかったよ……いってらっしゃい」


 早苗は先日買ったマウンテンバイクを漕いで家を出ていった。まだ、新品に近い状態のはずなのに、ハンドルが曲がっているように見えたのは目の錯覚だろう。がさつな早苗の扱いが悪いわけではない……はず。


「――――――」

「……あ? なにか言ったか?」

「い、いえいえ、なにも言ってないですよ! それよりも、さあ、早く行きましょう! 溶けちゃうので!」

「はいはい……って、溶ける?」


 夏見がその体からは想像できないくらいの力で、僕を引っ張っていく。なんだか、違和感だらけだな。なんだろうか、何処かでこの光景を眺めたような気がしてならない。あの会話もいつかに聞いたような気がする。デジャビュって奴だろうか? それとも、昔見た夢と現実が混同しているだけなのか。考えてもどうしようもないか。


 僕は空を見上げる。白い雲が悠々と群青の海を漂っていた。

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