2章 通い妻後輩との一日

001 同じ朝

 昔、なっちゃんと名づけられた豚がいた。


 学校の先生が授業の一貫で、学校に連れてきたのだ。命を育てるということを学び、最後には食べて、命の大切さを学ぶ。最初は嫌がっていた生徒も、次第に愛着がわいていて、昼休みも放課後もみんな飼育小屋に会いにいっていた。


 小学生の夏の出来事だった。どれくらい育てていたかは覚えていない。でも、いつかそのときが来て、給食の時間に豚肉が並んだ。みんな、言葉にしなくてもわかっていた。その肉が、さばかれたなっちゃんだということに。

 みんな箸を動かさなかった。動かす人もいたけど、決して豚肉には手をつけなかった。変わり果てたなっちゃんを見て、涙を流す人もいた。今から思えば、子供にとっては酷すぎたのだ。自分が育てたものを食べるということは、親が自分を食べることと同義だった。命の重みを知るためには、まだ幼すぎたのだと思う。別に深い愛着を持ってはいなかったけど、その独特な雰囲気に飲み込まれ、箸を持つことはできなかった。でも……一人だけその豚肉に箸をつけている、男の子がいた。みんなの視線が、その男の子に注がれていた。その視線には侮蔑や畏怖の意が込められているように感じた。そのことに気がついていなかったのか、男の子は驚くことを言った。


「――美味しいな」


 その瞬間、隣にいた同年代の子より、頭一つ大きい男子が男の子の頬を打擲した。倒れた男の子に、興奮した男子は喚き散らしていた。蹴られた男の子に、同情する子は誰一人としていなかった。

 立ち上がった男の子は、悪びれた素振りも見せずに、言い放った。


「なんだよ、感想を言っただけじゃないか」


 男子は自分が育てた動物を侮辱するようなことを言うのか、と怒った。


「はあ? それがどうしたんだ。なに? 動物を食うことがいけないことだって言いたいのか? お前らはアホか。いつもお前らだって肉や魚を食ってるだろ。それなのに、自分が育てた奴は食えないってか? 意味わからねえよ。食うことのなにが悪いんだ。ただ、人間が食物連鎖の頂点に立っているだけって話だろ。というか、食えなくなるくらいなら名前をつけんなよ。料理するなって抗議しろよ。お前らはただ流れに身を任せているだけじゃねえか。都合のいい奴等だな」


 男子は男の子の言葉に唖然とした。反論の言葉を持っていなかった。だから、暴力を振るうことにしたのだ。またもや、男子は男の子を殴り始めた。


 その日から、男の子に近づく人物はいなくなってしまった。一人だけ、幼馴染みが話しかけるだけだった。


 *・*・*


 ミーンミーン――


 蝉の鳴き声が、遠くから暑さを集めてくる。

 寝汗が肌と寝巻きの接着剤の役割を果たしているせいで、気怠さと気持ち悪さが覚醒しきっていない僕の体にまとわりついている。


「……起きるか」


 背伸びをすると、脊髄に染み付いていた睡魔が霧散したような気がした。


 カーテンを開けると、朝の日光が射し込み、簡素な部屋の床に短な列を作り出していた。窓を開けると、涼しい場所を探し求めるように、新鮮な風が部屋の中に吹き込んできた。


 今は……何月何日だっけ?

 記憶を掘り返して、今日が八月十三日であり、そして、夏休み真っ只中だということを思い出した。

 どうりで暑いわけだ。さっさと秋になり涼しくなって欲しいと思うが、夏休みを楽しみたいという気持ちもある。


「……取りあえず、朝ごはんを食べるか」


 自分に言い聞かせるように、そう口にして立ち上がろうとする。さて、今日はなにをするか。

 うーんと、唸りながら考えていると、ドンドンと向こう側から扉を叩かれる。


「――せんぱーい! 通い妻である私、夏見が起こしに来ましたよー! 中に入っていいですかー!」 


 耳をつんざくような声が、扉の向こう側から届く。投げ槍に言葉を投げる。


「……適当に入ってきてくれ」

「はーい! 入りますよー!」


 扉を蹴破るような勢いで、声の主が部屋に入ってくる。

 漆を塗ったような真っ黒な髪、清楚な雰囲気を醸し出す白いワンピース、小さな体には似合わない大きな麦わら帽子。まさしく、夏を体現しているような少女が、太陽の代わりができそうなほど明るい笑顔で、部屋の中に入ってきた。


「先輩! お体の具合はどうでしょうか?」

「…………」

「ん? どうかしたんですか? 具合が悪いんですか!」


 黙っていると、少女は自分の額に左手を、僕の額には右手を置き、簡易的な体温測定を行い始めた。


「……熱いですよ! 風邪ひいたのかもしれません!」

「いや、寝起きだからだと思うぞ」


 僕の部屋にはエアコンがなく、冷房器具と呼べるのは物置部屋から引っぱってきた扇風機くらいだ。長年使い続けていたせいか、途中で動きを止めることがある。今日も、ずっとつけっぱなしにしていたはずが、羽は回っていなかった。


「たっく……本当にポンコツだなこいつは……あれ?」


 運転と書かれたボタンを押してみると、扇風機は難なく起動した。まるで、若返ったように元気に羽を回している。


「……なんだかな……」

「気分がよかったみたいですね」

「夜行性ならいいのにな……」


 軽く扇風機を叩き、少女と向き合う。


「それで先輩、調子はどうですか?」

「調子はいいよ。それで……なあ、いくつか質問していいか?」

「はい! いいですよ! ドンとこいです!」

「まず一つ……」


 脳内にこびりついていた疑問を恐る恐る口にする。


「――?」


 目の前の少女に見覚えが一切なかった。もしかしたら、ただ僕が忘れているだけじゃないかとも思ったが、交遊関係がかなり狭い僕のことを、子犬のように「先輩!」と呼んでくる後輩は誰一人としていないはずだ。部活にも所属していない身だから、後輩と関わりを持つ方が難しいのだ。


 しかし、本当に忘れているだけかもしれない。その可能性は捨てきれなかったので、無礼を承知して質問をぶつけてみたのだが……少女は悪戯がバレた子供のように、無邪気に笑って見せた。


「ですよね~。知らないのも無理もないですよ! これで会うのは二回目ですから」

「二回目? じゃあ、一度は会ってるのか?」

「はい、そうですね。でも、本当に少しの時間でしたし、先輩にとってはそれほど印象に残る出来事でもなかったみたいですし。仕方ないですよ!」

「うーん、そうなのかな……」

「はい、そうですよ! 別に大丈夫なんですよ。それに、今日から私のことを覚えていてくれればいいんですよ!」

「それもそうか」


 泥棒とかじゃなくてよかったと、ひとまずは胸を撫で下ろす。


「二つ目の質問なんだが……君の名前を教えてくれないか?」

「あ、そうでしたね。えーと、私の名前は神原夏見かんばらなつみです。先輩の二つ下なので、高校一年生になります。あと、先輩と同じ高校ですよ!」

「そうか。僕の名前は……と、君は知ってるんだよね?」

「はい。秋山和也、ですよね」


 少女――夏見は満面の笑みを咲かせる。僕の名前を言葉にしただけでそこまでの反応をされると、嬉しいような、気持ち悪いような、複雑な気持ちになった。

 しかし、不思議だ。こんなに可愛くて、喜怒哀楽がはっきりとしている子は、上級生の中でも話題になりそうなものだが。僕にも同級生の男友達は二人か三人程度はおり、邪な話も耳にするが、神原夏見という名前は聞いた覚えがない。


 ……まあ、いいか。過去のことなんか水に流して、これから始めればいいか。


「先輩。お腹空いてませんか?」

「ん……まあ、空いてるかな」

「じゃあ、朝御飯を食べましょう! さあ、早く着替えて!」

「わかったけど……君は外に出ないの?」

「む。そ、そうですね。私、外で待ってまーす!」


 夏見は弾け飛ぶように部屋を出ていった。

 ……嵐みたいな子だったな。なんか、話すだけでドッと疲れた。

 ぐぅ~と、お腹の虫が空腹を訴える。お腹が空いていちゃあ、考えれるものも考えられないか。


 僕は立ち上がって、枕元に私服が畳んであることを確認して、寝巻きを脱いだ。そのとき、上着から一枚の紙切れが落ちた。拾って見てみると、そこには文字が書かれてあった。


『和也。お前のせいでたくさんの人が傷つくんだよ』

「……なんだ、これ?」


 意味がわからなかった。その字は確実に僕のものだったが、こんな不吉なことを書いた覚えはなかった。朝から考えるのも億劫おっくうなので、適当に引き出しの中に突っ込んで、服に着替えて、部屋の外に出た。



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