1章 あいつが帰ってきた

001 久し振りの再会

 ――もうすぐで世界が終わる。 


 まだ、やることがあったはずなんだ。未練なんて、有り余るくらいにあるのだ。

 でも、運命に抗うことなんて、できるはずがなかった。

 

 ――死にたくなんてない。


 自分の存在が消えてしまうなんて、考えたくもなかった。


 でも……それ以上に、自分が消えてしまったことを、に認知されないという事実が、なによりも苦痛だった。 

 そのときを待つよりも、今すぐ命を絶ってしまおうかと考えたことがある。毎朝見る、あの人の辛そうな顔が、悲しそうな顔が、心を抉るから。


 けれど、あの人の可愛い笑顔を見ていると、そんな気持ちは簡単に吹き飛んでしまう。あの笑顔が偽りだってことは知っているけれど。


 息が苦しい。周囲の景色が真っ黒になっているように見える。電気がついてないのかと思い、立ち上がろうとしたけど、別にこのままでいいかと思って止めた。


 まるで、海の中にいるみたいだった。


 もがいてももがいても、水面より上に出ることはできない。


 苦しいから、楽しかったあの頃を思い出す。皆と笑いあって、語り合って、遊び尽くした毎日を。過去に思いを馳せて、最後に残ったのは、苦しみだけだった。


 ああ、あの頃に帰りたい。


 時々、記憶の中に入れたらいいのにと思う。記憶に入って、あの楽しかった日をもう一度体験するのだ。 


 何度、っていい。楽しいことなら、いくら繰り返しても飽きないのだ。

 

 それに今よりはずっと、ましだと思うから。

 

 ……ふあぁ……眠たいなあ。


 目を閉じる。もしかしたら、既に閉じていたのかもしれない。瞼の裏にはなにも映らなかった。


 走馬灯だろうか? 過去の景色が頭の中を駆け抜けていく――


 *・*・*



 ミーンミーン――


 蝉の鳴き声が、遠くから暑さを集めてくる。

 寝汗が肌と寝巻きの接着剤の役割を果たしているせいで、気怠さと気持ち悪さが覚醒しきっていない僕の体にまとわりついている。


「……起きるか」


 背伸びをすると、脊髄に染み付いていた睡魔が霧散したような気がした。


 カーテンを開けると、朝の日光が射し込み、簡素な部屋の床に短な列を作り出していた。窓を開けると、涼しい場所を探し求めるように、新鮮な風が部屋の中に吹き込んできた。


 今は……何月何日だっけ?

 記憶を掘り返して、今日が八月十三日であり、そして、夏休み真っ只中だということを思い出した。

 どうりで暑いわけだ。さっさと秋になり涼しくなって欲しいと思うが、夏休みを楽しみたいという気持ちもある。


「……取りあえず、朝ごはんを食べるか」


 自分に言い聞かせるように、そう口にして立ち上がろうとすると、


「――おはよう。和也かずや


 聞き慣れた声が鼓膜を震わせた。脳が一気に覚醒する。部屋の中を見渡すが、人の姿はなかった。気のせいかと思い、気持ちを切り替えて、また立ち上がろうとするのだが、


「おはよう。和也」


 また、同じ声が聞こえた。いや、今度は肩を叩かれる感覚があった。振り向く――と、同時に鋭い痛みが頬を走った。予期してなかった衝撃で景色が歪む。歪んだ景色の中心に、人の形のシルエットがあった。

 徐々にその形が浮き彫りになっていき……一人の少女が窓から、不機嫌そうな顔で僕を眺めているのが見えた。


「――おはようって言われたときは、おはようって返すのが普通だろ。あたしがいない間に挨拶もできなくなったのか?」

 

 すぐ目の前に少女が立っていた。

 最初に見た人には気が弱そうに見えるだろうが、長年一緒にいた僕にはそうは見えない。僕にとってこの女子は、女王様と書かれた名札を胸に張りつけているような女だった。つり上がった凛々しい目も、腰の辺りまで伸びたうるしを塗りたくったような黒髪も、僕の心にはなんの感慨もわかせないのだが、彼女と出会った人々は口々に「美しい」と絶賛する。

 海堂優香里かいどうゆかり。十八歳、女性。そして、僕の同級生であり幼馴染みである。


 優香里は真っ白なワンピースに、大きな麦わら帽子をかぶっている。身長は小学生高学年でも通りそうで、昔の彼女の面影と完全に合致していた。成長しなかったらしい。


「……なんか失礼なこと考えてないか?」

「考えてないよ。おはよう、久し振りだね。元気にしてたか?」

「うん、元気だったよ」


 僕は叩かれた頬を撫でながら言った。すると、優香里は満面の笑みを浮かべた。


「目覚めたか? 覚めたなら早く食事をとって、外に出てこい。待ってるから。四十秒で来いよ」


 そう言い残して、窓の中から颯爽さっそうと姿を消した。

 僕は頬を何回か叩く。そして、枕元にあった私服を手に取った。


 四十秒で支度など、できるはずもなかったので、ゆっくりと時間をかけて着替えた。


 *・*・*


 部屋を出ると、目の前に二階へ上がるための階段があった。左手には小汚ない玄関があり、そこから僕の部屋と階段に挟まれるように、一直線に短い廊下がある。奥の扉を開け、廊下から吐き出された先にあったのは、広めのリビングと台所と、机で食事をする二人の女性だった。


「あ、おはよう、和ちゃん」

「……おはよう」


 真っ先に挨拶をしてくれたのは、僕の母――秋山紬あきやまつむぎだった。

 若さ作りとひょうして、頭にカチューシャをつけている。中学生、下手したら小学校高学年と見間違えられそうだが、しっかりと母親らしい人物だ。若さなんて作らなくとも、若く見えるのだが、本人はそうは思っていないらしい。最近は通販にはまっている。


「僕の朝ごはんはある?」

「え、ないよ」

「え?」


 舌足らずな声で、酷薄なことを言う母。腰が崩れそうになる。


「和也……もう、昼だぞ」

「え? マジ?」

「ああ。だから、今並んでるのは昼ごはんだ」


 そう言ったのは、秋山早苗あきやまさなえ――僕の姉だ。

 金色の髪が揺れている。暴走族でバイクを走らせていた頃の名残か、今でも髪を染めたり、ピアスをはめたりしている。

 性格も子供っぽい所が多々見受けられるのだが、肉体的なところではそこらの大人じゃ相手にならないほどの魅力で溢れている。

 俗に言う、喋らなければ美しい、だ。

 彼女と出会い恋に落ち、見事に玉砕した人は後を絶たず、口々にこう言う。


「彼女は繋がるべき存在じゃないということが痛いほどにわかったよ。彼女は博物館に飾られるような芸術品で、見て楽しむものだってね」

「生きているべきではないと思った。殺して、石化させて部屋に飾るんだ。なにも語らず、私のことを楽しませてくれるからね」

「蹴られた……潰れたかと思った……」

「彼女は相手のことを自分と同じ生き物だとは思っていないのだ。故に、その攻撃は普通の人間より強力だ……だが、それがいい」


 本人曰く、馬鹿ばっか、だと。お前がそれを言えるのかと突っ込んだのだが、そのお返しとばかりに鉄拳が飛んできた。かなりがさつな人間であることだけは、実の弟である僕が保証する。


 そんな彼女も大学二年生であり、あと二年も経てば社会人となる。きっと、そうなればこの島を出ていくのだろう。だから、一緒に過ごせる夏も残り少ないのかもしれない。


「……マジで?」


 僕はもう一度聞き返した。早苗に関して、僕はもう一つ保証できることがある……嘘が上手いということだ。

 昔、早苗の『お風呂は一時間は浸かりなさい』という言葉を鵜呑みにし、危うく脱水症状と窒息で死にかけたことがある。長く浸かれば代謝があがるとか、我慢強くなれるとか、それらしい理由をあげていたのもあり、僕は簡単に騙されたのだ。泡を吹き、意識が途切れる瞬間に見た、彼女の嬉しそうな顔は、今でも夢に現れ、高いところから突き落とされるような恐怖感と冷や汗を僕にもたらし、睡眠時間を奪っている。他にも似たようなエピソードがあるのだが、あまり思い出したくない。


 彼女は魔性の女なのだ。中国人の芸者に化けたり、大統領を口説くような度胸はないが、その辺の転がっている男を巧みな嘘で弄び、相手がその気になれば「そんな気はなかった」の一言で一蹴すると、捧げたお金や熱情もさえも簡単にどぶに捨て去り、次の男をたぶらかしにいくのだ。というのは誇張しすぎだが、無意識に似たようなことをしてしまっている。こんな馬鹿に騙される方もどうかと僕は思うが。


「本当だって。外見てこれば?」


 言われた通り、窓を開けて空を見てみる。太陽は真上に浮かんでいた。さらに、正午を告げるチャイムが遠くから聞こえてきた。


「……完全に寝過ごした」

「落ち込むようなことじゃないだろ、別に」

「そうなんだけどさ……」 


 貴重な夏休みなのだ。一秒も無駄な時間を過ごしたくない。遊びこそが無駄な時間の浪費だと言われれば、立つ瀬がないけれど。


「さあさあ、早く食べて。和ちゃん」


 母が言う。振り向くと、母と早苗は会話の途中だったのか、談笑を始めていた。そうだ、早く食べて外に出なければ、奴になにを言われるか――


「早くっ」

「痛っ⁉️」


 和やかな雰囲気とは縁がなさそうな声が聞こえ、驚いた拍子に窓枠に頭をぶつけてしまった。痛む頭を擦りながら見てみると、不気味に笑う優香里の姿があった。早く行かなければ殺さねかねない、長年の経験がそう言っていた。


 僕は窓を閉めて鍵をかけた後、席に座ってせっせと焼きそばをかきこんだ。味はよくわからなかったが、母と早苗の会話が産み出す柔らかな雰囲気を感じられるだけで、幸せを感じた。やっぱり、食事は大人数でするべきだな。


 早く外に行かなければ、優香里に怒られると思いながらも、箸を動かすスピードが緩むことはなかった。

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