社内恋愛終了のお知らせ ⑦
母が氏名に続き住所と本籍地の記入を終えると、次はゆうこさんが証人欄に記入してくれた。
証人になってくれた両家の母の顔に泥を塗るようなことだけはしてはいけない。
そして潤さんのお父さん……いや、お義父さんのくれた新しい名字の判子を生涯使い続けられるよう、潤さんと添い遂げることを心に誓う。
「あとはこちらの婚姻届を潤くんの本籍地の役所に提出するだけですね」
ゆうこさんは朱肉の蓋をしめながらそう言った。先ほどの婚姻届に署名したときとはまた少し違った緊張が全身に走る。
「本来なら嫁ぐ日の朝は、花嫁がご実家でご両親にご挨拶をするのが理想的なのですが……。でもこれで志織さんは、ご実家から潤くんの元へ嫁ぐことができますね」
それを聞いて初めて、ゆうこさんがあんなに時間を気にしていたのに、わざわざ私の実家に立ち寄った理由がわかった。
本当に時間が惜しいのであれば、婚姻届の記入は私の借りていたマンションの部屋でも車の中でも、ペンと下敷きさえあればどこでだってできたはずだ。そして私が役所に戸籍謄本を取りに行っている間に、母に婚姻届を預けて証人の署名を頼んでおくこともできた。
でもそれをしなかったのは、婚姻届を落ち着いて書くとか、母に証人になってもらうためとか、そんな単純な理由だけでなく、私を実家から嫁がせてあげたいと言う、私と私の両親への心遣いからだったのだと思う。
あいにく父は仕事で不在だったけど、前もって連絡を入れて相談して、父の顔も立ててくれたのだろう。私が思っていた以上に細やかなゆうこさんの気遣いには、感動すら覚えた。
母はゆうこさんに深々と頭を下げる。
「ありがとうございます。本当に何から何まで……。これで安心して娘を送り出すことができます」
「いえ、わたくしにできることはこれくらいしかありませんので、どうかお気になさらず」
ゆうこさんは、さも当たり前のことのようにそう言ったけれど、私はやっぱり、ゆうこさんでなければここまではしてもらえなかったと思う。
「ありがとうございます。入籍する前に母に会えて良かったです」
「そう言っていただけて、わたくしも嬉しいです」
そう言ってゆうこさんは優しい笑みを浮かべた。
常人では考えられないような能力をいくつも持っていて、ときどき任務に忠実なアンドロイドのようだったり、そうかと思えば少女のように可愛らしかったり、本当に不思議な人ではあるけれど、これから義理の母になるこの人は、まぎれもなくあたたかい血の通った人間で、ひとりの優しい母親なのだ。母親だからこそ、三島家に嫁ぐ私の気持ちも、娘を送り出す母の気持ちも大切にしてくれたのだと思う。
私は母の方にまっすぐ向き直り背筋を伸ばす。
「お母さん、私を産んでくれて、育ててくれて、ずっと見守ってくれてありがとう。ちょっと厳しかったけど……叱ってくれたことも、自分で考えて動くことを教えてくれたことも、大人になって全部役に立ったから、本当に感謝してる。ありがとう」
素直な気持ちを伝えると、母は照れくさそうに目をそらして、ほんの少し寂しげな笑みを浮かべた。
「うん……。志織は人より不器用で要領が悪かったから、どうしても厳しくなっちゃったけどね……志織ならできるって思ってたから。ここまで本当によく頑張ったわね。これからはひとりじゃなくて、潤さんと一緒に頑張んなさい」
母の言葉を聞いて、幼い頃に何度やってもうまくできなかったことが悔しくて泣いていると、『できないこともあきらめずに頑張れば必ずできる』と叱咤激励されたことや、あきらめずに頑張ってそれができたときには、『よく頑張ったね』と嬉しそうに笑って優しく頭を撫でてくれたことを思い出した。
昔から母の言葉は変わらない。
私は今、母の娘に生まれてきて良かったと心の底から思う。
「うん……ありがとう。何があっても潤さんと一緒に頑張って、絶対に潤さんと一緒に幸せになる」
少し涙声になりながらそう言うと、母は嬉しそうに笑ってうなずいた。そして潤さんに向かって頭を下げる。
「潤さん、志織をよろしくお願いします。至らないところもあると思いますが、どうか末長く大事にしてやってください」
「はい、一生大事にします。志織さんは僕が責任を持って、必ず幸せにします」
潤さんの力強い言葉を聞いて、母は安心した様子で顔を上げて微笑んだ。
「何か困ったことがあったら遠慮なく頼っていいのよ。困ったことがなくてもいつでも来てちょうだいね。これからは家族になるんだから」
「はい、よろしくお願いします」
潤さんは嬉しそうに笑って頭を下げた。
『家族になる』と言う言葉は、幼い頃に母親に愛された記憶のない潤さんにとっては、きっと特別な意味があるのだと思う。
「それから今日は時間が合わなくて来られなかったけど、志織には兄が二人いるから、その家族も一緒に今度紹介するわね。お正月にでも二人で帰ってらっしゃい」
「はい、楽しみにしてます」
母が話題にするまで忘れていたけど、そういえば私は結婚が決まったことを兄たちに報告するのを忘れていた。あまりにも急すぎて、兄たちだけでなく、誰にも報告していないのだ。
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