社内恋愛終了のお知らせ ⑥

 お弁当を食べながら、潤さんのお父さんが雑誌のインタビューで『仕事の後の妻の手料理が最高の贅沢』と言っていたことを思い出す。

 きっと潤さんのお父さんは、料理そのものの豪華さや味の良し悪しではなく、ゆうこさんが自分のために一生懸命料理を作ってくれることや、ゆうこさんと二人で過ごす穏やかな時間を『最高の贅沢』だと言ったのではないだろうか。それがきっと潤さんのお父さんにとって、最高の贅沢であり、癒しなのだと思う。

 私も潤さんがどんなに疲れても安心して帰れる『家庭』という場所を守りたいと思った。



 お弁当を食べ終わって30分ほど経った頃、私の本籍地の役所に到着した。

 潤さんは車に残り、ゆうこさんが窓口まで付き添ってくれて、無事に戸籍謄本を受け取ることができた。

 それからゆうこさんは私の実家へと車を走らせた。実家に着くと父は仕事のため不在で、昨日ゆうこさんから連絡をもらったと言う母が、私たちを出迎えてくれた。

 挨拶もそこそこに、ダイニングのテーブルで私と潤さんが並んで席に着き、向かいには母とゆうこさんが座る。

 ゆうこさんはバッグから取り出した婚姻届用紙をテーブルに広げ、朱肉と印鑑マットを用意して、高そうなボールペンを潤さんに手渡した。


「お二人にはこれから婚姻届に署名と捺印をしていただきます。念のため予備の用紙も用意してありますが、間違えないよう焦らず丁寧に記入してくださいね」


 潤さんは緊張の面持ちで婚姻届にペン先を下ろし、『夫になる人』の欄に丁寧に署名した。

 営業部にいた頃に何度も目にしていた、力強くも繊細な、見慣れた文字だ。

 それから住所や本籍地などの必要事項の記入と捺印が終わると、私にボールペンを差し出した。

 私は母が見守る中、ひとつ深呼吸をして、ドキドキしながら『妻になる人』の欄に署名をする。

 住所欄には新しい住み処となった潤さんの家の住所を書き、本籍地欄には戸籍謄本を見て確認した正しい実家の住所を記入した。

 ひとつ記入欄を埋めるごとに大きく息をつく。これまでに経験したことのない緊張感に支配されているような気がする。

 すべての記入が終わると、ゆうこさんはバッグから小さな長方形の包みを取り出して私の手に握らせた。


「これは?」

「修一さんから志織さんへのプレゼントです。開けてみてください」


 私が包みを開ける手元を、潤さんが隣で覗き込むように見ている。

 包装紙を開くと桐箱が現れ、その中には藤色のケースに収められた『三島』の判子が入っていた。


「婚姻届に押すのは『佐野』の姓の判子ですが、届け出をしたあとは志織さんも『三島』になりますので、この判子をお使いくださいね」


 潤さんのお父さんからのプレゼントは、潤さんの妻になる私を三島家の嫁として快く迎え入れると言われたようで、嬉しくて目元が潤んだ。

 私はまっさらな判子を握りしめて頭を下げる。


「ありがとうございます……!大切に使わせていただきます!」


 ゆうこさんは柔らかく微笑んで、今度は私がもらったものよりもふたまわりほど大きな箱を取り出し、潤さんに差し出した。


「これは潤くんへのプレゼントだそうです」

「えっ、俺にも?」


 潤さんが少し首をかしげながら包みを開けると、やはり桐箱が現れ、その中には私がもらったものより少し大きめの黒い印鑑ケースが入っていた。


「俺にも判子……?俺は名字変わらないんだけどなぁ……」


 潤さんはそう呟きながら印鑑ケースを開けて判子に刻まれた文字を見る。判子には『三島 潤』と潤さんのフルネームが刻まれていた。


「あっ、これって……」

「はい、実印です。『これから所帯を持つのだから、これで印鑑登録をしなさい』とのことです。免許証はお持ちですよね?」

「持ってます」

「では婚姻届提出後に、印鑑登録の窓口に行って手続きをしましょう」


 私も潤さんも入籍のことで精一杯で、そんなところにまでは気が回らなかった。

 経験豊富な年長者のアドバイスは、私たちのように社会的な知識や経験の浅い未熟者にとってはありがたい。


「では次に……婚姻届の証人は2名必要ですが、今回はお二人のお知り合いにお願いする時間もないと思いますし、昨日志織さんのご両親と相談して、どちらのお父様もお仕事で都合がつかないとのことですので、志織さんのお母様とわたくしがサインをさせていただくことにしました。よろしいですか?」


 そう言えば証人二人に署名をしてもらう必要があるとゆうこさんから聞いていたけれど、すっかり忘れていた。

 本当に何から何まで甘えっぱなしの任せっきりで申し訳なく思うし、大人として少々恥ずかしい。


「もちろんです。志織もいいよね?」

「はい、お願いします」


 私たちが頭を下げると、ゆうこさんは婚姻届の用紙を母の前に置き、ボールペンを母に手渡した。


「では君枝さんから記入をお願いします」

「わかりました」


 母は少々緊張した様子でペンを握り、証人の氏名欄に丁寧に名前を記入する。婚姻届は入籍する二人だけでなく、証人も本籍地を記入する必要があるようだ。

 婚姻の証人になると言うことは、証人としてそれなりの責任を持たなければならないと言うことなのだろう。


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