かけて引いたり、足して割ったり③

「そういうことなら仕方ないですね、妊娠後に仕事を続けるのも辞めるのも本人の意思ですから。今月末で退職ということですか?」

「一応今月末付けで退職だけど、明日からは来ないよ。自分の体調とお腹の子の安全を第一に考えて療養するんだってさ。有給の残りを消化して、足りない分は欠勤するらしい」


 有給を消化するとは言っても彼女は新入社員だし、周りを気遣うことなく好き放題休んでいたから、有給なんてほとんど残っていないはずだ。

 しかし無理をして出社して何かあったら取り返しがつかないから、本人の意思を尊重するのが最善だと思う。


「まぁ、経済的にも社会的にもしっかりした婚約者がいるそうだし、結婚のきっかけとしてはいいんじゃないですか?最近は授かり婚とかいうんですよね?」


 私がパソコンに暗証番号を入力して勤怠簿を開き、山村さんの有給が何日残っているのか調べていると、有田課長は首を横に振り、手招きをして耳を寄せるよう促した。


「それが婚約者の子ではなかったみたいだよ」

「……え?」

「これは俺が本人から聞いたんじゃなくて、新人ちゃんのお父様がぼやいてたのを部長経由で聞いたんだけどさ。親の手前もあって婚約者の彼とは清い関係だったのに、付き合ってもいない行きずりの男との間にできちゃったらしいんだ。その男とは酒の勢いで1回きりだったから、名前も連絡先も知らないらしい。そんなんで婚約破棄されたけど子どもには罪はないから、親の助けを借りて産んで育てるってさ」

「なんと……」


 結婚生活が楽しみでしょうがないなんて言って、婚約者の彼のことを散々のろけていたのに、山村さんに一体何があったんだろう?

 酒に酔わない私には経験がないけど、酒に酔った勢いで一度きりの関係を持つなんてのは、大人の男女にはよくある話だ。

 妊娠したのが婚約者とか彼氏の子ならともかく、素性の知れない男との間にできた子どもを産んで育てるのは、相当の勇気がいると思う。

 それなりの家柄の娘だという話だから、周囲からの好奇の目に晒されるとか、身内や近しい人からの陰口が巡りめぐって耳に入ることがあるかも知れない。

 どんなに愛情を注いで育てても、子どもが物心ついたら自分の出生に疑問を抱いたり、父親に会わせてくれと言う可能性もある。

 ……その辺の覚悟はできてるのかな。

 だったら我が身の保身のために子どもを産まないと言うと、それはそれで無責任だとか、子どもの命をなんだと思ってるんだと責められるのは、結局山村さんだ。

 そして周囲から責められることよりつらいのは、あるはずだった子どもの未来を摘み取ったという重い罪を一生背負うことだと思う。そう考えると、しっかりした後ろ楯もあることだし、父親が誰であれ、産んで育てようと本人が決心して良かったのかも知れない。

 何を言ったって、この問題は私たちにはどうしようもない。新人ちゃんのまさかの妊娠退職には驚いたけど、無事に元気な子を産んで、頑張って育ててくれることを祈るばかりだ。



 山村さんのことや翌日からの業務について有田課長と話しているうちに、定時から30分が過ぎた。

 ようやくオフィスを出ようとしたとき、瀧内くんからのトークメッセージが届いた。取引先の担当者との話が少し長引いてしまい、これから会社に戻るので少し遅くなるとのことだった。

 とりあえず1時間後に近くのファミレスで待ち合わせたけれど、先に店に行ってお茶を飲んで待つにしても、一人では暇を持て余してしまいそうだ。

 そういえば駅直結のショッピングセンター内の大型書店がリニューアルオープンしてから、まだ一度も行っていないことを思い出した。

 なんとなくバタバタして忘れていたけれど、千絵ちゃんの出産祝いと珠理の結婚祝いを包むための祝儀袋も買わなきゃいけないし、たまにはゆっくり本も読みたい。

 ショッピングセンターの書店に行って、少し時間を潰すことにしよう。


 書店は会社帰りらしき人たちや、学生風の若者たちで賑わっていた。

 文房具好きが高じて文具メーカーに就職した私は、ショッピングモールなどに出かけるとリサーチも兼ねて、文房具売り場や変わった文房具を売っている雑貨店を見て回る。最近の大型書店は本だけでなく文房具や趣味のコーナーも充実していて、見ているだけで楽しい。

 まずは忘れないうちに目的の祝儀袋を選び、文房具コーナーへ向かっていると、雑誌コーナーにさしかかった。


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