乗り換えますか?④

「わー、いいのー?助かるー。通勤に便利な部屋って最高ー」


 一緒に住む気なんて1ミリたりともないから棒読み調で返事をしたのに、伊藤くんは酔って私の真意に気付けないのか、立ち止まって荷物を地べたに置き、ジャケットの内ポケットから手帳を出して今月のカレンダーのページを開いた。


「今月下旬ならいつでも引っ越してきていいぞ!佐野となら食の好みも話も合うし、変に気を使わなくて済むから毎日気楽に暮らせそうだな。あ、なんならいっそのこと結婚でもするか!」


 なんだそれ!今そんなこと言う流れだったっけ?!

 彼氏の護だってそんなこと言ってくれないのに、ただの同僚の伊藤くんに冗談で言われるとは思わなかった!


「ちょっと待って、いくら酔ってても冗談で言っていいことと悪いことがあるよ?」

「なんで冗談?俺そこまで酔ってないし、佐野がいいなら俺はオッケーだけど?で、いつ来る?」


 新入社員の頃から伊藤くんのことはちょっと変わった人だとは思っていたけど、ちょっとどころじゃないらしい。そしてかなりマイペースなことはたしかだ。


「行かないし……。伊藤くんって調子いいのは相変わらずだよね。そうやって営業部の後輩たちにも、あることないこと吹き込んでるんでしょ」

「吹き込んでるって何を?」


 この男……そこまで酔ってないと言いながら、酔っぱらいの皮を被ってとぼけているのか?

 それとも本気で心当たりがないのか?


「……伊藤くんが異動になる前、私と……」

「ああ……俺と佐野が噂になってたってやつか。あれはちょっと彼女の反応を見てみたかったというか」


 そんなことをして一体誰が得をするんだろう? 伊藤くんの考えていることが本当にわからない。


「何それ?彼女とはもう終わったんでしょ?私と伊藤くんが昔噂になったことなんて、誰も興味ないと思うけど」

「そうでもなかったぞ?彼女とは別のやつらが反応した」


 そう言って伊藤くんは思いだし笑いを浮かべた。何か良からぬことを考えている顔をしている。


「やらしい笑い方しないでよ」

「今度は佐野にプロポーズしたって言ってみようかな」


 さっきのあれがプロポーズだなんて冗談じゃない!

 あんな軽くて適当でもののついでみたいな、例えて言うなら、職場の同僚に『お菓子まだたくさんあるからこっちで一緒に食べませんか』みたいなノリのプロポーズがあってたまるか!

 いや、あったとしてもそんなの私は許せない。


「……結婚をなんだと思ってんの? そういうのを悪ふざけっていうんだよ」

「悪ふざけじゃなかったら俺と結婚する?」

「しません。私にとって伊藤くんは『気の合う同期の伊藤くん』だからね。それ以上のことは考えられない」


 キッパリと言い切ると、伊藤くんは何がおかしかったのか声をあげて笑いだした。

 とうとう完全に酔いが回って思考回路がおかしくなってしまったのか?

 本当に家まで送り届けるのだけは勘弁してほしい。


「何?私、何かおかしなこと言った?」

「ふーん……まぁ、今夜のところはそれでいいや。そうだ、晩飯に付き合ってくれたお礼にこれあげる」


 伊藤くんはボストンバッグの中から菓子折りらしき箱を取り出して私に差し出した。


「取引先の担当者がお土産にって持たせてくれたんだけど、俺、この味が苦手なんだよね。荷物になって悪いけど、良かったら家で食べて」

「ありがとう……」


 ピンク色の包み紙には『京都名物』『生八ツ橋』の文字が踊っている。


「出張って京都だったの?」

「そうだよ」

「ひとりで?」

「いや、橋口と一緒だった」


 ちょっと待って、出張から帰るのは日曜の晩じゃなかったの?もしかして帰りは別々で、護だけ明日帰ってくるとか?


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