初めての試合4 そんな日が来るよ

「すいませんでした」

 情けないことに声に出したら唇が震えた。泣きそうだ。


「謝ることないわ。今から取り返してきてあげる」


 桜宮さくみや先輩は艶然と笑った。


 私は曖昧に頷き、桜宮先輩がコートに入る姿をぼんやりと見る。

 だらだらと足を後ろに動かして歩きながら、思う。


 何がお疲れ、だ。

 全く疲れていない。疲れるほど何もしていない。

 ただ、棒立ちでいただけだ。


 負けた。

 また、負けた。


 先輩方が横一列で待機しているところまで歩いていき、足を止めた。


「ここに座るんだよ」

 いつもの笑みを浮かべて椿つばき先輩が私に声をかけてくれる。小さく頷いて、隣りに正座した。


 籠手こてを取り、並べて自分の前に置く。後ろ手に面紐めんひもを引っ張って面を外した。両手で面を抱え、籠手の上に置いて頭から面タオルをむしりとる。


「良い面が入ったら、拍手して応援しよう」

 椿先輩がそう声をかけてくれる。私は無言でまた、頷いた。


 知っている。桜宮先輩から教えてもらった。

 剣道では、バレーボールのように「がんばれ」的な声援は送らない。すべて拍手で応援するのだ、と。


 突然、湧き上がるような拍手が会場を占める。


 とっさにコートを見た。

 主審以下、3人の審判の旗は白。桜宮先輩が一本取ったのだ。


「小手アリ!」

 主審の言葉に、弾かれたように拍手をした。お相手の田中さんは天を仰ぐような仕草をしている。


「母さん、ファイトっ」

 敵陣からそんな声援が聞こえ、その後、笑い声が続いた。どうやら、田中さんのお子さんが応援しているらしい。


「良く頑張ったよ」

 椿先輩が不意に声をかけてきた。

 首をひねると、中堅ちゅうけんである先輩は、綿タオルを頭に巻いている最中だった。


「……でも、三〇秒もあそこにいませんでした」

 私は二本目が始まったコートを見る。


「僕なんて、最初の試合、コートにすら入らなかったよ」

 あっけらかんと椿先輩がそんなことを言いだした。


「あそこ、怖いだろ」

 椿先輩はコートを顎でしゃくると、両手で面を持って被る。慣れた手つきで面紐をしばりながら、けろっとした顔でつづけた。


「僕、小学校1年生の時に初めて出た個人戦、試合放棄だもん」

 唖然と見つめる私の前で、椿先輩は面金めんがね越しに、にっこり笑った。


「怖くて怖くて。相手は大きかったしねェ。親と指導者に引きずられてコートの脇まで行ったけど、結局暴れて逃げ出して……。前代未聞だ、って言われた」

 だから、と。椿先輩は続ける。


「逃げ出さない桃ちゃんは尊敬するよ」

「今は怖くないんですか?」

 私は椿先輩に尋ねる。


 そんなに怖いと思っているものが、何故続けられるのか。


 少なくとも、私はバレーボールが嫌いではなかった。全員でひとつのボールを追うことが楽しかったし、ドヤ顔で打ち込んでくるスパイクを拾い上げるときの快感は今でも忘れない。

 怖いと思ったことは、桧山ひやま先輩がらみだけだ。


 結局。

 その怖さからも、自分のせいで負けた、という情けなさからも逃げ出した。

 蘇芳すおう先輩は、『退いた』と表現したけど、ただの敵前逃亡だ。

 その、怖さや惨めさに私は今でも向き合っていない。


 そんな私は、ここでも、やっぱり怖さと向き合えないんじゃないか。

 そう思うと、次第に顔が下を向く。


「今も怖いよ」

 椿先輩の不機嫌そうな声が聞こえてきて、顔を上げる。


「大きな相手に当たれば、『吹っ飛ばされるんじゃないか』って思うし、初心者に当たれば、『竹刀が外れて、防具の無いところに当たって、とんでもないところに青あざ作られるんじゃないか』って不安だしね。いいことなんてひとつもないよ」

 椿先輩は言いながら、でも、照れたような笑いを口の端に滲ませる。


「だけどねぇ。勝ったら帳消しだ」

 椿先輩は私を見つめたまま、穏やかに言う。


「勝った時の記憶は、すべての怖さを消しちゃうんだよ」

 手を伸ばし、ぽすり、と私の背中を叩いた。


「桃ちゃんにも、そんな日が来るよ」


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