先輩たちからのお誘い2 私、初心者なんです

「私、初心者なんです」

 意を決してそう告げたのに、笑みを湛えたまま桜宮さくみや先輩は、「知ってる」と、あっさり返事をした。


「今回の新入生に剣道経験者がいないのは、地元道場から連絡来ている」

 蘇芳すおう先輩も私に頷いて見せた。え、なに。そんな連絡網があるんですか、剣道って。


「ようこそ、剣道の世界へ。剣道とは剣の理法りほう修練しゅうれんによる人間形成の道だ。長くけわしいぞ」


「いえ、違うんです」

 泣きそうになって首を横に振る。私のすぐ真後ろを、「どの部に見学行く?」「順番に見ようか」と、暢気に会話しながら通り過ぎる幾人もの新入生が心底羨ましい。


「何が違うの?」

 桜宮先輩が小首を傾げる。さらり、と黒い髪が肩口に揺れた。

 4月の陽光が真っ白な肌を滑って、きらりと光っているようにも見え、思わず見とれてしまったが、そんな場合ではない。


「私、女子バレー部に入ろうと思ってて……」

 口を突いて出たのは、その場しのぎの嘘だった。


 桧山ひやま先輩がバレー部にいるのに、そんなこと出来ない。入るつもりはない。だけど、この場をなんとかして逃げなくては。


「バレーなんていつでもできるじゃない」

 いきなり桜宮先輩が私の手首を掴み、顔を近づけてくる。

 ふわり、とさっぱりした匂いが彼女から漂ってきた。すっきりとしたきれいな顔に、柑橘系の香りがとても似合っている。


「でもね。剣道は高校時代にしかできないのよ?」

 思わず、「はぁ」と返事とも息を吐いたともつかない声が口から漏れる。


「だから、さぁ。ここに名前を」

 握られた手にボールペンを滑り込まされ、反射的に首を横に振った。


「いやいやいやいや。剣道だって、いつでも出来るでしょう!」

 思わず叫ぶと、桜宮先輩は、ぎゅっと瞳を細めて見せた。あ。こんな顔をすると、やっぱり猫っぽい。


「例えば、あなたが大学に進学するでしょ? ほら、想像してみて」

 桜宮先輩は私の手を握ったまま、斜め四五度を見上げてみせる。


「私には見える。大学でバレーボールサークルに入って、学生生活もバレーボールも楽しむ、あなたの姿が」

「はぁ……」


「で。卒業して、どこかの企業に就職。そこでもあなたはきっと互助会でバレーボールサークルに入るのよ。ああ、そこできっと素敵な恋人を見つけ、結婚するわね。相手はなんとなく、マッチョの……、アタック? スパイク? なんかそんなの打つ男よ。多分」

「……はぁ……」


「で。子どもが生まれ、幼稚園にでも通い始めたら、PTAのママさんバレーボールに入るわね。そこで、ママ友もみつけるの」

「……はぁ」


「ね?」

「え?」


「バレーボールなんて、今しなくても、将来いつでもできるでしょ?」

 桜宮先輩は、同性でもうっとりするような笑みを私の眼前で浮かべてみせる。


「と、こ、ろ、が」

 桜宮先輩は、そこで一言一言区切った。ぱっちりとした丸い目に鋭い光が宿る。ひぃ、怖い。


「剣道はそうじゃないわ。もう、高校生でしかできないのよ」

 断言する桜宮先輩に私は慄きながら、ちらりと彼女の隣に立つ蘇芳先輩を見た。


「そんなことないでしょう?」

 助けを求めるように言うと、蘇芳先輩は口をへの字に引き結んだ。


「俺の母は現役剣士で四二歳になった現在も道場で竹刀を振っているが……」

「蘇芳のママは私、大好きだけどアレは例外」

 黙れ、とばかりに桜宮先輩は蘇芳先輩を睨みつけた。その勢いのまま、ぐりん、と私のほうを向き直り、桜宮先輩は滔々と語った。


「剣道の防具ってだいたい全部で七キロを越えてるのよ。そんなものを身につけてあなた、四○才越えてまで走り回りたい? 

 おまけに、夏場一番汗をかく競技は、屋外一位はアメフト、屋内一位は剣道よ。何が悲しくて大人になってまで汗だくで格闘技するのよ。それにね、汗をかくってことは、臭いってことなのよ。そんな臭いオトナ女子が恋愛できると思う?」


「俺の母は、小学生から剣道をしているが、同じく小学生から剣道をしている父と恋愛結婚した」

 ぼそりと蘇芳先輩が横槍をいれ、また桜宮先輩に睨まれる。なんとなく、このふたりの力関係が分かった気がする。


「蘇芳ママは剣士と結婚したかったんでしょ? もう、変わってるわよ。いやよ。何が悲しくてこんな臭い男たちを恋愛対象に含めなきゃいけないのよ」

 蘇芳先輩と、少なくとも蘇芳先輩のご両親の素敵エピソードをばっさりと斬って捨て、桜宮先輩は私を見る。


「剣道をするなら、高校生まで。ね? 高校時代に剣道をして、二段を取りましょう。そして履歴書に書くの。いろいろ有利よ?」

 優雅に微笑む桜宮先輩は、この可憐な見た目からは想像もつかない力で私の手にボールペンを握らせる。


 まずい。

 このままでは、剣道部に入部させられてしまう。目まぐるしく頭を働かせて、ふと、そういえば、と思いつく。


「剣道って、防具とか高いんでしょ? うち、そんなにお金払えないので」

 口にしてから、そうだそうだ、と自分で納得する。お金かかるから無理。これで押し通そう。


「あなた、中学時代もバレー部?」

 桜宮先輩は私から手を離し、私の体を頭からつま先まで一瞥する。ようやく離れてくれたことにほっとしつつ、私は頷いた。


「一年からレギュラーでした」

「その身長で?」

 不思議そうに尋ねられたから、苦笑してしまう。「桜宮」。注意を促すように蘇芳先輩が言い、「失礼」と、桜宮先輩が口元を手で押さえる。そのしぐさが可愛くて、私は思わず顔がほころぶ。


「小学生時代はセッターをしたこともありましたが、中学時代はずっとリベロでした」

「リベロって?」

 桜宮先輩は隣りの蘇芳先輩を見上げる。


「守備専門の選手の事だ。攻撃しないから、身長はそんなに関係ない、とも言われている」

 蘇芳先輩が端的に説明をし、「ふぅん」と桜宮先輩はつまらなそうに返事をする。


「バレー部だと、シューズってどれぐらいお金かかるの?」

「一足八千円ぐらいですかね。ぴんきりですけど……」

 私は首を傾げながら答える。


「寿命は?」

「寿命?」

 桜宮先輩は手に持っていたボールペンを机の上に転がしながら、私を見る。


「一足買って、三年間使えるの?」

 まさか、と私は笑う。


「成長期でしたから、サイズも変わるし……。まず靴底がダメになりますから、少なくとも、一年に一回は換えますよ。いや、二回かな……」

「ってことは、一年で一六〇〇〇円がシューズ代でしょ? 3年間だと、四八〇〇〇円ってところか」

「……まぁ」

 呟いて、そう考えると高いな、と思った。


「で、バレー部とかって、お揃いのTシャツや防寒着作るじゃない? Tシャツだと1枚四千円ってところ?」

 私は戸惑いながら頷く。


「一枚って事はないわね。洗い換えだっているし……。ってことは、Tシャツで約一万円。で、防寒着……。あれ、なんていうの?」

 桜宮先輩が蘇芳先輩に尋ねた。


「ウィンドブレーカー。だいたい、ネーム入れて上下で一万五千円ってところか」

「ボールやネットとか、共同で使うものは部費で賄うんでしょ? 部費って毎月いくら?」


「……うちの中学は三千円でした」

「それ、遠征費別でしょ?」

 私は恐る恐る頷く。


 待って。なにこれ。この会話はどこに向かってるの。


「今でいくら?」

 桜宮先輩が蘇芳先輩に尋ねる。


「個人持ちの道具代だけで七万一千円。部費が三千円×一二月×三年で、十万八千円。遠征費別」


 その計算の速さにも驚いたけど、諸費用にも驚いた。こんなにかかってるの?

 その表情に気付いたのだろう。桜宮先輩が、にやりと笑った。


「剣道部には貸し出し用防具があるので、三年間それを使用すれば、道具代は不要よ。竹刀は買ってもらわないといけないけど、これも一番安い竹刀で二千円程度。交換用にもう一本買っても二本で四千円。上手く使えば三年間買い替え不要」

 桜宮先輩は私との間に置かれた机に手を突き、ずい、と上半身を私のほうに乗り出してくる。


「あなたの身長なら、私の中学時代の道着が合うから、お古でよければあげるわ。うちは部費を徴収していないから、毎月の支払いもなし。防寒着……」

「ウィンドブレーカー」

 隣りから蘇芳先輩が口ぞえする。


「それも、いらない。うちは好き勝手着てるから。家からあったかい服、持ってきて」

 ほぅら。桜宮先輩は悪魔のような笑みを口の端に滲ませる。きれいなだけに、凄みが……。


「今のところ、四千円しかかかってません。剣道は、その辺のスポーツよりお金がかからないの」

 思わず無言で桜宮先輩を見つめていた私の耳に、苦笑した声が聞こえてきた。


「基本、壊れないんだ、剣道の防具は。シューズみたいに買い換える必要がないからな」

 蘇芳先輩が私を見てそう教えてくれた。


「もちろん。防具を一式自分で買ったらそれなりにするぞ? だいたい約五万円ってところかな。だけど、高校時代に買えば、もうそれこそ体型がかわるまで使える。うちの地元道場のパパさん剣士なんて、三十半ばだけど、高校時代のものをまだ使ってる」


「剣道、やってみない?」

 桜宮先輩が身を乗り出して私の視界に入ってくる。

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