#112 : Classic / ep.3

 霊園には地図を頼らずとも辿り着けた。

 小高い丘を埋め尽くす墓石は無彩色。白から灰へ、そして黒。空の青さと芝生や木々の緑だけ。色味の少ない世界では、金髪はすぐに見つかった。

 話しかけようとして、やめた。かける言葉が見つからなかった以上に、墓石の前で瞑目する横顔が美しくて、そして、あまりに弱く見えたから。

 墓石に刻まれた苗字は、芥川。


「……母方なんです。母の葬儀以来会っていないので、顔も覚えていませんけれど」


 すっくと瞑目したまま立ち上がって彼女は言う。ゆるやかに伸びた金髪が風に乗って揺れていた。


「よくここが分かりましたね」


 問いかけを無視して確認したいことはいくらでもあった。過去の自殺未遂のこと。芦屋千枝との確執のこと。そして「さようなら」の真相のこと。

 だけど、彼女は真正面から尋ねて答えるような人間じゃない。天邪鬼だから。踏み込まれたくないから。踏み込まれて——真実を知られると嫌われてしまうと恐れているから。

 それが彼女のまとった謎の真相。

 この世の誰も信じられなくなることと引き換えに手に入れた、心を——自分を守るための呪われた、嘘と微笑みの鎧。


「シャンディさんを愛してる人たちに聞いたからね」

「さすがあたし。人気者ですね」


 横顔に走った洒脱な微笑みが、真実を覆い隠そうとする。居丈高な態度は、言葉を逸らして受け流すもの。受け止める気はない。彼女はずっと、逃げている。

 踏み込むのはまだ怖かったから、外堀を埋めにいく。


「ここに居るって教えてくれたのは、《こどものいえ》の杉江先生」

「相変わらずお喋りですね」

「《こどものいえ》のことを教えてくれたのは——」

「飯森さんと文香ちゃんでしょう? 裏切り者め」

「全部教えてくれたのは凛子さんだけどね」

「まる一年黙っていたんだからよしとしましょう」


 ずいぶん長いこと、凛子はシャンディの真実を腹の中に抱えていたらしい。凛子なりに考えがあったのかもしれないが、今はどうでもいいこと。


「知ってしまいましたか」


 悲しげなシャンディの顔を見たら、言葉より先に体が動いた。

 抱きしめる。華奢な体をきつく捕まえる。もうどこにも行かないでと、そばにいてと願いを込めて。


「失望させてしまいましたね」


 言葉が出なかった。何を言っても、心を開いてくれる気がしなくて、代わりに腕の中の温もりを抱きしめる。からからに渇いた口と喉が、やっとのことで声を上げた。


「これくらいのことなら。こんなつまんないことで悩むなら、早く話してよ」


 華奢な肩が小さく震えていた。金髪がまとったオレンジの香りが頬をくすぐる。もっと味わいたい。温もりも、香りも。そしてようやく、閉ざされた過去の扉に手をかけることのできた、自分自身の成長も。


「…………」

「さよならなんて言わないで」


 ベンチに腰掛けて、ふたり並んで霊園を眺める。小高い丘の上、彼方の稜線には、ずいぶんと気が早い入道雲がもくもくと勇姿を誇っていた。

 彼女は何も言わなかった。美琴も何も言わなかった。ただ移ろいゆく時間を眺めていると、震えを抑えて小さくつぶやいてくる。


「行き止まりなんです、あたしは」


 普段より輪をかけて抽象的な言葉には、悔しさが滲んでいた。彼女についての知識を総動員して、美琴は意図を探る。


「行方不明者だったんだね」

「ええ」


 認めた。ネタは上がっているのだから、嘘などついたって意味はないと気づいたのか、あるいは閉ざされた扉を開いてくれたのか。心を読めない美琴には、どう考えたって分からない。


「舞台からあたしを逃してくれたチェシャには、返しきれないほどの恩があります」


 芦屋千枝は芥川アリスを殺した。そして生まれ変わってからの数年間を支えていた。恩人であるという事実は揺るがない。


「だけど。あたしはもう、綺麗に飾られるだけの人形にはなれない。ワガママなひどい女ですから」


 潤んだ瞳に見つめられる。琥珀色の双眸は、今までどれだけの涙を流してきたのだろう。幼少期から始まり、女優時代。チェシャに飼われていた頃。そして美琴に出会うまで。


「ワガママまで含めてシャンディさんでしょ」

「それであたしを認めたおつもりかしら? 雑な常套句クリシェですこと」


 ほとんど条件反射レベルで言葉を疑ってくる。彼女のまとう人間不信の鎧は頑丈だ。真正面から構えても、まっすぐには受け取ってもらえない。

 だから真正面には立たない。大きく背伸びする。


「気をてらった言葉より、使い慣れた常套句の方が私の体に馴染むもので」

「あら残念。創意工夫の末に編み出した究極の愛の言葉をいただけるものだとばかり」

「言葉とは弄せば弄すほど、真意が伝わりにくくなるものだと思いませんか?」

「虚飾を排するということかしら。たった一言で、あたしをシビれさせることができると?」

「シャルロット」


 名を呼び、見つめ合う。謎のヴェールは取り払われた。

 目の前にいるのは謎多きバーテンダーじゃない。

 ただの人間の、シャルロット・ガブリエルだ。

 ほの暗い過去、スネに刻みつけられたいくつもの傷からオトナびて達観しているけれど、それは過去を知られて嫌われたくなかっただけ、要らぬ同情を寄せられたくなかっただけ。


「よくがんばったね」


 本当は弱いくせに。他人ばかりか自分まで信じられないくせに。勝ち気で、強気で、自身を大きく、強くみせようと振る舞っていた究極の演技派役者。


「これからはシャルロットの二十五年分も、私にも背負わせて」


 固まった彼女の双眸は、大きな大きな琥珀色の満月だった。


「……何を言ってるかわかってるの?」


 驚いているのか、悲しんでいるのか。彼女の本音はわからない。わかる余地もない。二十五年間もまるで違う生き方を送ってきた人間の心など理解できるはずもない。


「わからないけど、一緒に背負うことくらいはできるでしょ?」

「何を背負えるのよ。あたしは性格が悪くてプライドばかり高い、自殺未遂までした、恩人の愛すらワガママ言って裏切る女なのよ」


 普段の敬語が抜けて、ようやくシャルロットが姿を表す。苛立ちと不安が、初めて見せた苦悶の表情と震える声色に溶けているように思えて。

 シャルロットは言葉を飲み込んだ。

 伏せって、しばらく黙す。風が梢を揺らす、さらさらとした音にさえかき消されそうな声が聞こえてくる。


「貴女の重荷になりたくないの」

「ぜんぜん軽いでしょ。細いし」

「……バカ」


 心底呆れられているのに嬉しかった。やっと奥深くに潜む本心と出逢えて話ができている。真下を見下ろす横顔、金髪の奥で、赤く色づく頬や耳がまぶたに焼けついて。


「かわいい」


 それは、オトナびたバーテンダーらしい艶姿。

 そして、西洋人形のような完成された美しさ。

 さらに、天邪鬼で気分屋のイタズラな少女。


「……かわいくない。見ないで」

「ずっと見てる。見続ける。見せたくないトコまで含めて好きだから」

「…………」

「そんなに私と別れたい?」


 何も語らず、シャルロットが身を寄せてきた。胸元に顔を埋めてくるのは、顔を見られたくないから。思えば彼女はいつも、虚をつかれると視線を合わせてくれない。


「私からは逃げないでほしいな?」


 ふわりと揺れる金髪を撫でた。視線からは逃げるくせに、まるで子どもをあやすような触れ合った手からは逃げないのが可笑しかった。

 素直なんだか、素直じゃないんだか。


「……これはあたしの問題だから」


 シャルロットを取り巻く問題は高い壁だ。だけど壁の前で悠長に止まっているつもりはない。


「だから背負うんでしょ。私たちの問題だから」


 シャンディの実態を掴んですぐ、美琴はこうした問題にいちばん強くて信頼のおける人間に連絡を入れていた。早苗だ。


「まず行方不明の件だけど、失踪して七年以内なら役所に届ければ戸籍は復旧できる」

「……事件の記録は揉み消せない」

「だいじょうぶ。消せないのは記憶だけ」


 これも早苗からの入れ知恵だ。やけに法律や犯罪の揉み消し方に詳しい早苗に感謝する。


「その記憶も、失っていたことにすればいい。自殺に失敗して記憶喪失になった。貴女の演技力があれば警察くらい騙せるよ。自殺は罪に問われないし」

「チェシャはどうするのよ」

「あの人は、記憶喪失のシャルロットを生かしてくれた恩人。そういうことにしとけばいい」

「……違うと言ったら?」


 これも法の抜け穴だ。

 自殺は罪に当たらないが、自殺を幇助した者は罪に問われる。


「違うなんて言ったら、自殺幇助の罪を認めることになるからね」


 記憶を取り戻したシャルロットが、芦屋千枝を褒めたたえる内容をどこかにリークする。カリスマ女性経営者が、記憶喪失の女性を助けていたという美談は瞬く間に広がることだろう。メディアにも出演している芦屋千枝が、世間から寄せられる栄誉や賞賛を手放すはずがない。それも、自殺幇助の罪を認めてまで。


「これが芦屋千枝との遊戯なら、最初から貴女の勝ち。ていうか、これくらい気づいてたでしょ」


 シャルロットは小さく息を吐いた。


「……早苗さんの入れ知恵ですね?」

「う、ぐ……」


 普段の、敬意を込めているのか込めていないのかわからない敬語が戻ってくる。いくぶん余裕を取り戻してくれたらしい。

 シャルロットではない、よく見慣れたシャンディの姿。こちらの姿でいてくれるのも嬉しい。


「当然気づいていますよ、それくらい」

「ならどうして」

「そうできない理由があるから行き止まりなんです。かわいらしいおバカさん」

「どうして? 理由は?」


 くすりと笑うだけで、彼女はまた押し黙った。

 心の奥底に潜むシャルロットは見せても、芦屋千枝と戦おうとしない理由だけは絶対に話そうとしない。

 言いたくない理由があるなら言わなくていい。いつもと同じ考えが脳裏をよぎる。無理に聞き出してもいいことなんて何ひとつない。はぐらかされて終わりだ。


「ねえ。シャンディさん」

「何です?」

「行き止まりだって言うなら、邪魔してる何かがあるなら——」


 だけど踏み込むと決めた。

 踏み込むと決めたし、背負うと言ったのだ。

 だったら。動けない理由があると言うのなら。高い壁があると言うのなら。


「——壊そう、ふたりで」


 あれだけ怖かったのに、口にしたらスッキリした。


「今さら秘密もないでしょ? 貴女みたいに激重の金髪クソ女なんて、私以外に面倒見られる人居ないんだから」

「……今までで一番ひどいプロポーズですね」


 シャンディは笑っていた。呆れたような、諦めたような。それでいて安らかな笑顔だった。


「引いてダメなら押してみろ。貴女の教えてくれた駆け引きの原則なんだけどね」

「人を腐すようなやりくちを教えた覚えはありません」


 駆け引きをしかけて、美琴は気づいた。

 遊戯は、相手の心に寄り添うものだ。選択の余地を与えられたところで選ぶのは他の誰でもない自分自身。


「嫌ならいいよ。別れたいなら別れてくれていいから」


 ずっと遊戯に背中を押してもらってきた。

 凛子には手のひらの上で踊っているだけと言われたけれど、それでもいい。どんなに恥ずかしくても、幾度もの遊戯で自分が望む方を——彼女が喜ぶ方を選び続けたのは自分だ。


「だけど、たとえ別れて終わったとしても、貴女の優しさは死ぬまで忘れない。私は——」


 だから今度は、私が寄り添ってあげたい。嘘偽りない、背伸びもしない。私自身の等身大の心で。


「——私はバーテンダーのシャンディも、女優の芥川アリスも、シャルロット・ガブリエルも好き」


 恥ずかしかった。だけど背伸びがバレたときの恥ずかしさじゃない。

 きっとこれが、踏み込むということ。

 真正面から向き合ったゆえの、気恥ずかしさなのかもしれない。


「なら、ひとつ。質問をさせてくださいますか?」

「おや、遊戯ですか。喜んで」


 琥珀色の瞳から、涙があふれていた。さめざめと泣く彼女を抱き留めて、長い沈黙を待つ。

 返事なんてどうでもよかった。ただ、謎に包まれていた彼女のすべてが好きだと、心の底から誓えるのが嬉しかった。

 震える声で、彼女が告げる。風の音にすら負けそうな問いかけが聞こえてきた。


「シャンディもアリスもシャルロットも。そして……黒須シャルロットも愛してくれますか……?」


 幾度も繰り広げてきたどんな遊戯よりも簡単で、まったく迷いもなかった。


「私は、貴女を愛します」


 言って、ふたり揃って深く息を吐いた。緊張をほぐす息遣いのタイミングすら一緒で、それがおかしくて笑って、笑ったことすらお揃いで嬉しくなる。


「あー! くやしい、くやしいです!」


 シャンディは涙ながらにぷりぷり怒り出したのだった。今なら理由もなんとなくわかる。


「ホントはいま誓う予定じゃなかったんです! 美琴にはもっとドラマティックな告白をしてもらおうと思っていたのに!」

「えー……。たとえばどんな?」

「チェシャとの結婚式に乗り込んで、あたしを奪って逃げるんです! 夢だったんですよ?」


 恐ろしい。そんな展開を考えていたなんて。そして、そんな夢のためだけに「さよなら」なんて、別れの意志を切り出してくるなんて。


「あのさあ……。愛を試すようなことしないでってダンスのときに言ったよね……?」

「ええ。ですが今回は試してなんていませんよ?」

「『さよなら』って言ったじゃない」

「分かりきったことでしょう? あたしが美琴を手放すと思います? 激重金髪クソ女らしいですし」


 彼女はいつもの調子でいたずらに微笑んでいた。謎が解けた今になっても変わらない思わせぶりな仕草が、ただただかわいらしくて安心する。


「面倒くさい女もらっちゃったね」

「お互いさまです。面倒くさいほどかわいいでしょう?」

「人によるかな」

「あたしは?」

「好きだってば」

「もっと」

「大好き」

「もっともっと」

「好き好き大好き超愛してる」

「常套句を使うのは照れ隠しですよね。かわいい子」

「う……」


 安心した矢先に、普段通りの油断も隙もない彼女が顔を覗かせる。どうしようもないSっ気だけは、嘘でも演技でもない素のものらしい。


「ホント友達なくすよ……?」

「貴女がいれば充分ですから」


 楽しげに笑う彼女に手を引かれた。霊園を歩いた先は、芥川家の墓の前。縁もゆかりもない人々の中にひとりだけ混じった、亡き母親に彼女は手を合わせる。無論、美琴も同じように。


「……母はクリスチャンだったんですけどね」

「そっか」


 故人の信仰など関係なく、母は焼かれて骨になった。これがいつだったか彼女が言っていた「私は信仰を捨てました」の真相なのだろう。


「そういう身勝手な一族ですから、絶縁状態でよかったと今は思えます。美琴を紹介したって、どうせ反対されるだけですもの」

「お母さんにも反対されたりしてね」

「枕元に立たれたら言ってやりますよ。勝手に死んだ貴女に、あたしの幸せを邪魔する権利なんてないって」


 微笑んだ横顔を雫が伝っていた。精いっぱいの強がりの証である涙は見なかったことにして、彼女の肩に身を寄せる。


「あたしのこれまでの全部を、好きでいてくれますね?」

「もちろん」

「……では、お話しします。あたしがチェシャへの切り札を切れない理由について。貴女と、貴女の妹さん。そしてゆくゆくはあたしの義理の妹になるかもしれない、大切な家族に関係のあることですから」

「琴音と凛子さんに……?」


 どうしてチェシャの件が、ふたりに関係するのだろう。疑問符を浮かべて言葉を待つ。

 見つめあったところで、琥珀色の瞳は上弦にきらめいたままだ。挑発的で挑戦的な勝ち気な姿。美琴を恋に落とさせて、落ちるばかりか人間として守って育ててくれた、頼りがいのある女性の幻。


「まずは餃子とビールで優勝しましょうか。せっかくの宇都宮ですし」


 緩急自在、自由気まま。ころころと笑う彼女はやっぱり、アンティッカのバーテンダーたるシャンディなのだった。

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