#78 : separation
「ねーなんで口塞いだん? みこ姉に言わんでいいん? こと姉とマネージャーさんのこと」
「ほらほら、喋ってたらお寿司が逃げちゃいますよー」
「あー! うちのイクラ食わんとってー!」
イクラのお寿司をペロリと平らげたシャンディさんは、幸せそうに微笑んでいました。ウチが最後に食べようと取っていた虎の子は、いまはもう胃の中に。残っているのは、お寿司に載っていた薄切りのキュウリだけです。今度シャンディさんが大嫌いな野菜たっぷりの晩ご飯を作って泣かせてやります。食べ物の恨みは恐ろしいのです。
ですが本題はイクラの恨みではなく。
「ほうやなくて。なんで黙っとかないかんの? みこ姉にとってはふたりとも大事な人やない」
「大事な人だから黙っておかなきゃいけないんですよ」
シャンディさんは2杯目の《ハイボール》をぐいっと呷り、ぼそりと呟きました。
なぜ、大事な人だから黙っておくんでしょう。本当に大事な人なら、ナイショにするなんておかしいのに。
「美琴はね、とっても優しいんです。優しすぎて、自分を後回しにしちゃうほどに」
「ほやったら余計に伝えてあげなかわいそうやない!」
「伝えたらどうなると思います?」
「絶対ふたりから話聞いて仲直りさせると思う!」
「だから伝えないんですよ」
シャンディさんは優しい人だと思っていたのに、ときどき意地悪です。マネージャーさんが言っていたような、自分勝手な悪い女なのかもしれません。
「シャン姉つめたい……。みこ姉に嫌われても知らんよ?」
「美琴はあたしを嫌ったりしませんよー」
「わからんけん! シャン姉のつめたいとこ知ったら!」
「冷たい女なので葵生ちゃんのお寿司も食べまーす」
「あぁーッ! それウチのえびバジルチーズ! バジルは野菜やないん!?」
「Gustoso e delizioso!!」
「なにそれー!?」
結局どれだけ質問しても、シャンディさんは何も答えてくれませんでした。
みこ姉はこの人のどこを好きになったのでしょう。やっぱり謎だらけです。
*
指定されたラブホテル。302号室のドアの前で美琴は逡巡していた。
なんせ、場所が場所である。シャンディと同棲して将来も誓い合っているのだ。婚約者と来るならまだしも、ひとりで来るには間違いなく縁遠い場所。もし知らない人だったら。そのまま何かの間違いを起こしてしまったら――
「怖すぎるんだけど……」
とは言え、メッセンジャーを務めたのは誰あろう董子だ。中で待っている人物にはおおよその想像もつくが、それならなぜこんな謎解きゲームみたいな回りくどいことをしなければならないのか。しかもラブホテルて。
「……とにかく、ノックだけはしよう」
ごくりと生唾を呑み込んで、美琴は恐る恐るドアを叩いた。
2回。硬質な木製ドアが音を立てる。このまま誰も出てこなければそのまま帰るし、知らない人なら通報する。ワンプッシュで緊急通報ができるように待ち構えていたところで、カチャリと鍵を外す音が聞こえた。誰か居る。
ドアが開く。
「きゃっ!?」
――も、身構えた時には遅かった。
ドアの隙間から伸びてきた4本の腕に絡め取られ、結局首謀者の顔を見ることなく302号室に引きずり倒された。スマホは床に落ちて通報どころではない。
敵は二人がかり、絶体絶命だ。
「意外と可愛い声を出すのですね、黒須さんは」
「解釈違い! もっと王子様っぽい感じがいい!」
見上げると、予想通りの人物が待っていた。
302号室は、まるで映えのない古くさいラブホテル内装そのものだった。女子会にはまず選ばないだろう手狭な密室。壁にはシミが、フローリングの絨毯にはほつれが。除菌に使ったであろう塩素の匂いとカビが好みそうな湿度の高い匂いが充満している。
「本気で怖かったんだけど!? 早苗さんも董子さんも何考えてるの!?」
美琴の抗議に疑問符を並べていた早苗は、何やら納得したようにため息をついた。
「私は黒須さんのご自宅を知らないので、呼んできてくださいとだけ言ったつもりですが」
「てへぺろー」
「という訳だそうです、黒須さん」
「どういう訳!?」
「だって秘密の話っぽかったんだもん。だったらスパイみたいな暗号がいいかなと思ってー」
「私の携帯まで持ち出して何をしているんですか……」
「だってカッコいいじゃない、女スパイ!」
「ちょっと待って婦婦で話進めないで、説明して!?」
董子の語るところによれば、美琴と直接会って話す必要がでてきた早苗のために、密談場所を用意したらしい。いつもなら閑古鳥が鳴いているアンティッカで済む話なのだが、アンティッカは休業中の上に密談場所に適さない。今、自宅でお寿司を堪能しているはずのバーテンダーがいるからだ。
つまり、話の内容は口外無用のトップシークレットだ。
「……シャンディさんにも話せない内容なんですか?」
「黒須さんは知らないと思いますが、弊社社長・日比谷
「突然そんなバカげた話されても……」
「多少誇張はしましたが事実です。ただ現在……御前潰しを計画している一派がいます。今回私が御前から直々に任された業務は、御前に敵対する一派の排除。正体はお分かりですね?」
お分かりですねと言われても。とは思ったものの、早苗がわざわざ会いに来てまで話す内容だ。となればその一派とやらは、これまで美琴と因縁浅からぬ関係にあったもの。事情は呑み込める。
「……小杉と不愉快な仲間たち?」
「ええ。ただ今回、小杉はお飾りです。一派の目的は御前の失脚と、スネに傷もつ小杉を経営陣のうちに送り込んで自分達に都合のいい
「秘書課との決戦ってことですか……」
「その通りです」
ベッドのへりに腰掛けて、早苗は小さく頷いた。その背後には「話はまだ終わらないの?」とばかりに退屈そうにゴロゴロ転がっている董子の姿がある。というか、董子がいる必要あるのだろうか。
「秘書課はスパイである赤澤を除けば4名。どいつもこいつも女を煮詰めたような一筋縄ではいかぬ悪女と毒婦ばかり。私ひとりでは正直、手に余るというものでして」
「内定の交換条件に手伝ってくれとか言い出しませんよね……」
「いえ、逆です。交換条件が成立しえなくなったので」
「は?」
早苗は無言で、A4用紙を見せてきた。辞令だ。
黙読した美琴は思わず声を上げてしまった。
「し、静岡支社出向!? 早苗さんが!?」
「秘書課に人事権を握られた末路です。社交界をメチャクチャにした報復に、たまたま総務の席が空いていた浜松に左遷となりました」
「なら引っ越しちゃうんですか、残念です……」
「人の心配より自分の心配をしてください。私が左遷されたら、黒須さんの就活に口利きできる者はいません」
「確かに他人事じゃなかった……!」
早苗は辞令を破ってライターで炙り、焼却処分した。この瞬間だけは董子も楽しそうだった。書類の焼却はスパイ映画っぽいからだろう。
「秘書課は今、人事部を完全に掌握しようと動いています。自分で言うのもなんですが、柳瀬早苗を左遷することがどれだけ本社の損失になるかは人事部も分かっているんです。なのに出向を命じたのは、そうせざるを得ない強い力が働いた証拠」
「そんなにやり手なんですか、秘書課は……」
早苗はクリアファイルを4つ渡してきた。それぞれに顔写真と履歴書、職務経歴はおろか人事資料まで入ったもの。個人情報の塊だ。日比谷はコンプライアンスを遵守しているようで、裏では穴だらけである。
「目を通しておいてください。戦うことになる相手です」
「私が戦うの!?」
お願いします、と早苗は頭を下げた。ついでに董子も土下座したが、勢いが良すぎてベッドの上を転がっていた。
「無理無理、無理だから! だいたい社員じゃないのにどうやって戦うの! あと友人とかこんな時に使うのやめて!?」
「秘書課が人事権を握っている限り、黒須さんの内定もあり得ません。つまり黒須さんにとっても秘書課は敵、連中から人事権をあるべき場所に戻しさえすれば、貴女の内定も私の本社復帰も叶う。やっていただけませんか」
早苗の発言を要約すれば、以下のようになる。
目下、秘書課は増長を続け、ゆくゆくは社長・恵美御前の失脚と経営陣への介入を目論んでいる。
早苗は御前から秘書課との対決を命じられていた。
が、その動きに気づいた秘書課は人事部に接触し、一番の強敵となりうる早苗を排除した。
いっぽう美琴は、企画を日比谷に持ち込み、コンペで好成績を残して内定を目指している。
ただ、美琴に内定を出すかどうか判断するのは人事権を握る人事部――つまり秘書課だ。
美琴が日比谷に就職するには、秘書課を打倒しなければならない。
そして秘書課を打倒できれば、美琴は晴れて日比谷企画部へ。早苗も本社復帰が叶う。
「いやいや、できないって……」
「お願い美琴さん! 早苗が単身赴任しちゃうとか私寂しくて耐えられない!」
「ついて行けばいいじゃないですか……」
「それだとシャンディさんのお酒飲めない! 《みこシャ》も拝めない!」
「どんな理由……」
「うわーん! 早苗ーッ! 浮気しないでーッ!」
「私には董子しか居ませんから」
「キャー! そういうとこ好きーッ!!!」
感情の起伏が激しすぎる婦婦漫才にうんざりしていると、董子にガッシリ抱きつかれたまま早苗が再び頭を下げてきた。
「二度まで助けられておきながら都合が良すぎるとは承知しています。ですが部下の飯田、赤澤や、秘書課に難色を示している派閥には声を掛けてあります。私もリモートで応じますし、董子も手厚くサポートしてくれるはずです」
「なんでもするよ! バニーガール着ろって言われたら喜んで着るし!」
「嫌なこと思い出させないで!?」
思い出しただけで顔から火が出そうになった。あのインスタ投稿はその後削除されたものの、日本全国津々浦々の誰かのスマホの中に保存されてしまっているに違いない。自分の写真が保存され、あれやこれやに使われる琴音の気持ちがよく分かった。末恐ろしく、そしてひどく恥ずかしい。
「結論から言います。貴女を巻き込む手段はいくつもありますが、友人にそんな卑怯な手段は使いたくない。あくまでも私は、日比谷で貴女と共に働きたいんです」
慇懃無礼で感情がこもらない早苗の声も、今回ばかりは痛々しかった。早苗としても苦渋の決断であることは分かる。新婚家庭なのに単身赴任を選んだのは、董子をサポートに回すためだろう。仕事のためなら家庭も犠牲にする。前時代的だが、仕事にかける強い覚悟は理解できた。
「……本当に秘書課を倒せば、狙い通りの結末になるんですか?」
「信じてください」
「お願い美琴さん! 婦婦の危機を救って!」
婦婦の危機とまで言われてしまうと、無関係なはずの美琴でも断りにくい。卑怯な手段は使わないと言いながら、董子がしっかり使ってくるあたりちゃっかりしているが、彼女らは美琴にとっても友人であり、貴重な婦婦の先輩だ。
――助けてあげたほうがいいんじゃない?
心の中の、善なる部分――普段から貧乏くじを引きまくって損ばかりしているほうが顔を覗かせる。途端に脳内議会で喧々囂々の議論が巻き起こり、そして終決した。
「……前向きには考えておきますが、期待はしないでください」
議決は、とりあえず保留で。
まだ心の整理がついていないのだ。そもそも安請け合いする方が失礼というものだろう。
「承知しました。実際に秘書課と対峙していく中で、心を決めていただければ」
「……帰りますね」
「ご足労いただき感謝します。あ、それと」
「シャンディさんにはナイショ、ですよね」
「よろしくお願いします」
秘書課4名の個人情報を持って302号室を出た美琴の足取りは重かった。
就活中に、社内政治に巻きこまれるなんて前代未聞も甚だしい。しかもその社内政治に参画し、秘書課の目論見を潰せということである。鉛筆会社あがりのペーペーに毛が生えたような素人に、伏魔殿の四天王を倒すようなマネができるはずがない。できるはずがないのに、できなければ中途採用など夢のまた夢なのだ。
「普通に内定が欲しいだけなのにー!」
誰も近くに居ないのをいいことに、美琴は夜の経堂の空へ高らかと叫んだのだった。
*
「ねー、早苗。ホントにシャンディさんにお手伝い頼まないの? 頼りになるのにー」
美琴が去った302号室のバスルーム。
シャワーを浴びていた董子は、大きな湯船に身体を浮かべている早苗に尋ねた。
「私が頼んだって動いてはくれませんよ」
「じゃあ美琴さん経由で頼むのは?」
「おそらくダメでしょう。あの女は黒須さんの就活を何も手を貸さないことで応援している。子どもの成長を見届ける親みたいなものです」
「そっかー……。前言ってたもんね美琴さん、シャンディさんに釣り合いたいって」
「あの女も内心は手伝いたいのでしょうが、黒須さんの意を汲んで放置している。ですから正攻法では彼女は動かない」
「なら、邪道な方法があるんだね。さっすが早苗! どんな方法?」
身体を洗い終わった董子に背後から抱かれて、早苗は湯船に浸かる。湯の温かさと董子の柔らかさを一度に味わえる機会もしばらくはお預けになる。ならば今のうちにと身を寄せた。
そしてゆっくりと口を開く。
「……黒須さんには、あえて窮地に立ってもらいます」
「ときどき容赦ないよね、早苗って」
「仕事のためです。あの女は不干渉を気取ってはいますが、黒須さんが窮地に陥ったと分かれば、どんな手段を講じてでも守りにかかります。先刻の社交界での出来事のように」
「愛情を利用するだなんて早苗ひどーい。私の天使は悪魔になっちゃったのー?」
「それを言うなら、我々はふたりとも悪魔でしょう」
「だねー。でもそれ、恨まれない?」
「気が咎めないかと言われれば否定はできません。が、私にだって守りたいものはありますし、そのためなら手段は選びません」
「守りたいものって何かなー?」
「知ってるくせに」
「えへへー」
風呂の中で温もりを交換しあう、しばしの別れの東京の夜。
同じ目的を目指して生きる婦婦の絆は、たかが数百キロの距離程度では切れない。
言葉や温もり、互いの指先の中に永遠があることを感じあって、ふたりは唇をただただ触れ合わせていた。
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