#67 : Blue Bird / ep.2

「そろそろ着くぞー」

「わーい!」


 隣で楽しげに鼻歌を歌っている葵生の姿を見て、美琴は赤のSUVの後部座席に深く身体を沈めた。


 四月下旬。横浜市内のFMラジオ局、《FMみなと》。

 SUVから降りて入構証を受け取り、美琴はまだ見ぬ琴音の仕事現場に足を踏み入れた。

 本日の予定は、シャンディいわくの「二十三歳のハローワーク」。女優・黒須琴音が水曜レギュラーを務めるお昼の帯番組・《チアアップ》の放送立ち会いというオトナの社会科見学とでも呼べるものだ。

 琴音を先頭に、マネージャーの凛子の後を葵生と二人してついて行く。本日の立場は、琴音の一日マネージャーということになる。


「本日もよろしくお願いしますね」


 局内で出会ったラジオスタッフたちに、琴音は女優モードで接している。SUVを降りた瞬間から女優として――すなわち、仕事人としてのスイッチを入れている。琴音がイメージを守り通していることを知っている美琴は何も言わず沈黙を守っているが、葵生はそんな苦労など知るよしもない。


「こと姉、いつもと全然雰囲気ちゃうね?」

「葵生ちゃん!?」


 懇意にしているスタッフの前で琴音の真相を暴くような悪いイジリ方をして、凛子がぎょっとした。一方の琴音はまったく動じず、涼しい顔で「ふふ」とばかりにころころと笑ってみせている。シャンディから盗み出したウソの仮面だろう。

 そんなことがあったからか、用意された楽屋の扉を閉めるなり琴音はモードを切り替えた。


「あんさぁ? 葵生は私を潰す気か?」

「ほえ。なんで?」

「お前にはわからんだろうけど、こっちにはイメージがあんの。下手に崩れたら仕事もそんなんばっかりになっちゃうワケ」

「わからん!」

「説明してやってよ凛子ちゃん。いかに推しが尊いか」

「言い方がムカつく」


 むすっとしつつも、凛子は懇切丁寧に琴音のイメージ戦略について語った。早口で話が飛びまくるマネージャーというより推しを熱弁すると言った様相だったが、凛子の言わんとすることは「演者のイメージで役が固定化されてしまうことを避けたい」というものだった。

 たとえばハイボール飲んでゴキゲンな役者がその後、ゴキゲンな役しか来なくなってしまったり。銀行内での出世レースに挑んで上司に倍返しした役者が、役のイメージが固定化してしまわないよう休業したりとエピソードは枚挙に暇がない。


「……だから、琴音はイメージを大事にしてるの。清廉潔白で何者にでも染まる美人のイメージを保ってれば、常に役柄とのギャップを狙えるから」

「ほへー」

「わかってねー顔だな……」


 やれやれと頭を抱えて、琴音は生放送の台本をチェックし始めた。生放送まではあと一時間。それまでの間、美琴と葵生には何もやることがない。とは言え、一日マネージャーとしてせめて少しは仕事をした気になりたいもので。


「なんか要るものとかある? 買ってくるけど」

「じゃ、のど飴とりんごジュース。炭酸NGで」

「美琴さんはいいよ。マネージャーの仕事だし、私が行くから」

「いや、このままじゃただ着いてきた人になっちゃうしね」

「それじゃ、頼めるかな?」


 「ごめんね!」と両手を合わせて申し訳なさそうな凛子に琴音を任せ、美琴と葵生はいったん局から出て近くのコンビニで買い出しをする。雑誌コーナーで立ち読みを決め込んでいた葵生を引きずって再び局の楽屋に戻ると、若い女性スタッフが琴音と段取りを確認していた。


「わ、こと姉。すごい真面目な顔しとる。全然ちゃうやん」

「葵生ちゃんあのね……?」

「ひう……凛子さんににらまれた……!」


 美琴が差し挟むより早く、凛子から送られた強烈な視線に葵生は口を噤んだ。凛子は、下手をすれば琴音以上に、イメージ戦略を大事にしているのだろう。

 ただ、葵生の言うとおりだと美琴も思う。

 八畳ほどの楽屋の隅から眺めた琴音の横顔は、真剣に仕事に向かっている人間のもの。美琴が以前聞いたラジオでの朗らかな女性像は、熾烈な努力の上に成り立っている。


「……美琴さん、ちょっと二人で話せる?」

「うん、いいけど……」


 琴音の仕事を見つめる葵生を楽屋において、凛子とともに局内の談話室に向かった。カップ式自販機コーナーで適当に選んだ飲み物をひと啜りして、凛子は「はあ……」とため息をつく。

 理由はなんとなく察せたので、美琴は先に告げた。


「ごめん、葵生ちゃんのこと巻き込んじゃって」

「シャルロットの提案なのがホントに腹立つけど、琴音がOKしちゃったんだからしょうがないよ……」


 凛子の言葉にはいらだちが多分に含まれていた。暗に、このマネージャーごっこの元凶たる葵生を責めるような色合いだ。

 実際、先日のシャンディとの五ポイント選手の面接遊戯ゲームで、凛子は終始葵生へ怪訝な視線を向けていた。葵生が世間知らずな返答を繰り返すたび、シャンディが減点を指示するより先に、タブレットの表示を変えようとしていたほどだ。

 凛子は琴音と同様、葵生に対して、あまりよい感情を抱いてはいない。その気持ちが分からなくもないが、彼女には彼女なりの理由もあるのだ。美琴はすっぱりとは割り切れない。


「あの子、大丈夫なの?」

「分かんない。私も十数年ぶりに会ったばかりで。まああんまり変わってないけどさ」

「十数年ってことは小学生だよね? その頃から変わってないって、さすがに純粋に育ちすぎだよ……」


 琴音が猫を被っていることなどお構いなく、葵生は化けの皮を剥がすような真似をしてみせたのだ。凛子のいらだちももっともだろうと思いきや――


「……考え甘くて心配なの。美琴さんはどう思う?」


 そう告げて、凛子はスマホに目をやった。生放送まで、まだ時間の猶予はある。


「あの年頃はあんなものじゃない? 東京で働きたい気持ちもなんとなくわかるけど」

「地方育ちにとって東京は憧れなの。でもなんて言っちゃうのはよくないよ。あの子、すぐ人の言うこと信じちゃいそうだし。悪い人に捕まって、変な仕事させられるかもしれない」

「そうだね……」


 葵生へのいらだちは、空気を読めないことへの怒りではない。どちらかと言えば、子どもを守る親心にも近いものだ。


「いとこが水商売してる、とかだと困るの。琴音のマネージャーとしても、美琴さんの友人としても」

「職に貴賤はないでしょ」


 凛子の口ははた、と止まった。


「世間的には風当たり強いから。美琴さんが私を汚い女だと思わないでいてくれるのは嬉しいけどね」


 苦笑しつつも、凛子は続けた。


「何を仕事にしても自由だけど、ちょっとだけ気をつけてほしい。どうせあの女も何か言ってたよね?」

「いろんな人の仕事ぶりを葵生ちゃんに教えて、やりたい仕事を見つけられるようにしたい……んじゃない? 照れ隠しで喋ってくれなかったけど」

「それで二十三歳のハローワーク……」

「シャンディさんらしいよね」


 納得したように重いため息をついて、凛子はビジネス手帳を紐解く。


「この後、汐留で収録もあるの。だから美琴さんも葵生ちゃんのこと見ててもらえる? 私、これ以上黒須家の女に振り回されたくないから」

「私も黒須家の女だけどね」

「貴女が一番振り回したよね?」


 恨めしそうな視線を送ってくる凛子に、身に覚えがありすぎて美琴は言葉を詰まらせた。が、途端凛子は破顔して「冗談だよ」と続ける。


「……最近やっとね。美琴さんを諦められるような気がしてきたの。まあ、諦めるしかないような状況に持っていかれた、って言うのが実のところだけど」

「シャンディさんのこと恨んでる?」

「殺したいほどだったけど……今はもう、どうでもいいかな。あいつに負けたけど敵わない相手だとは思ってないし、もし別れたら美琴さんが首を縦に振るまで全力でアプローチするけど」

「これはこれは。本当に私のことがお好きなようで」

「ほら出た、黒須家の女の悪いトコ。恥ずかしくなったとき、妙な受け身とって話を逸らそうとするヤツ。私わかるからね?」


 背伸びしたことの図星を突かれ、美琴はなんとも言えずに固まった。一緒に暮らしている琴音が余計なことを言ったのか、あるいは琴音も同じように話を逸らそうとして自爆したりしたのだろうと思うとやるせない気持ちになる。


「とにかく、葵生ちゃんの件はお願いね。そろそろ琴音の儀式に付き合わなきゃだから」

「まだやってたんだ、あの儀式」

「妹想いのお姉さんのぶんも、しっかり働くから」


 微笑んだ凛子とともに楽屋へ戻った。「儀式の邪魔だ」と追いやられた葵生と楽屋前の廊下に立つ。葵生の表情は先ほどまでとは別人のような、真剣そのものだ。琴音の気迫が伝染したようにさえ思えてくる。


「どうだった、琴音の仕事ぶりは?」

「……なんかね、何話してるかさっぱりやったけど、こと姉真剣そうやった。芸能人て適当に喋ったら終わりやないん?」


 葵生の質問に、美琴は過去を振り返りながら答えた。


「琴音はね、スカウトされて芸能界入ったんだけど最初のうちは毎日ボロボロだったの。芝居ができない、フリートークができないって毎日泣いてて。それでも必死で努力して、どうにか今の地位にいる」

「こと姉が泣いてたん?」

「琴音には内緒ね。あいつこういうこと喋ると本気で怒っちゃうから」


 琴音には美という才能があるが、それだけで長年渡っていけるほど芸能界は甘い世界ではない。芸能界は美のるつぼだ。ただ見目の美しさだけ競う者もいれば、演技力やトーク力などの類い希な美学をぶつけ合っている者もいる。

 そんな世界で生き抜くためには、美学を鍛えなければならない。女優なら美のみならず演技も。そして自らが世間からどう思われるかというイメージ戦略も。徹頭徹尾、美のことだけを考えなければならない。それがどれだけ苦痛を伴うことか、琴音から一番に相談されていた美琴にはよくわかる。


「煌びやかな世界ほど、見えない部分は必死なの。綺麗な白鳥が、水面下では必死でバタ足してるみたいなもの」

「こと姉が努力してるみたいに見えん……」

「努力してることを他人に見せるのがカッコ悪いって思ってるだけ」

「なんで? 努力できるんってすごいことやん。言って褒めてもらえばいいのに」

「へあ」


 葵生の純粋さには驚かされるばかりだ。自身の汚れっぷりが際立って、まぶしくて見ていられなくなりそうで思わず変な声が出た。


 仕事は結果がすべて。


 過程にある努力や苦労が直接、仕事の評価に結びつくことはない。努力よりも成果、過程よりも結果。それが重んじられる現代社会では、ひたむきな努力よりも、うまく仕事をこなせる要領の良さが重宝される。

 ただ、要領の良さを身につける方法もまた、努力。


「ウチ、ぜんぜんできんもん。やりたいことないし。みこ姉は?」

「私はまあ……企画やってた時はイヤイヤだったけど、頑張ってたかな」

「すごいやん! 努力できるんカッコええよ!」

「だけど、努力は報われるなんて単なる美談だよ。簡単に人を裏切るから」


 一本目の企画はラッキーパンチ、二本目は採用されたが頓挫した。さらには明治文具からお払い箱認定され、再就職のための自分探しをするハメになっている。

 美琴の努力は裏切られてしまった。その虚無感に覆われそうになる。


「むむむ。めんどいなー、社会……」

「そうね。とかくこの世は生きづらい、ってやつ」


 それでも、と美琴は思う。

 ――努力は人を裏切るが、努力しないとどこにも届かない。


「……私にとっては、それが企画だったのかもな」

「どしたん、みこ姉」

「あーううん。なんでも――」


 つい飛び出したひとり言を訂正しようとしたところで、楽屋の扉が開いた。

 まるでそうは見えないが、努力の化身――女優・黒須琴音が柔らかい微笑みをこちらに向けている。を分かつ儀式が終わったのだろう、琴音の顔は晴れやかな一方、凛子はどこか恥ずかしそうに視線を逸らしていた。あの近距離で琴音と見つめ合うことになるのだから無理もない。


「聞こえていましたよ、お姉様と葵生さん? わたしの努力のあたりから」


 朗らかな笑顔ですごんでくる琴音を前にして、葵生が咄嗟に美琴の背に回った。身を隠したと言っていい。


「さて、何のことでしょうね。私はあくまで、努力の大切さを噛みしめていただけですが」

「あら。わたしの前ではお久しぶりですね、紳士的なお姉様。大事な奥さんのために素敵な貴女の姿をとっておかなくていいんです?」

「ええ、お気になさらず。今は少々、背伸びをしたい気持ちになりましてね」


 美琴の即興の背伸びに、琴音は満足そうに微笑んでいた。


「あとで詳しくお話は伺うとして、まずは一本目のお仕事です。お手伝いいただけますか、クソニートな一日マネージャーさん?」

「ええ、喜んでご一緒しますよ。努力家の女優さん」

「ほへー……みこ姉もこと姉もヘン……」


 葵生は知らない。幼くて覚えていないのだ。琴音に女優の才能が花開いたのは、子どもの頃から続けていた美琴との即興劇エチュードの影響があってのこと。


「なんなの、この姉妹……」


 黒須姉妹の共演に呆れつつも、スマホのシャッターを押すことだけは忘れない凛子なのであった。

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