#51 : Masquerade / ep.3

 にんまりと、新しいオモチャを見つけたイタズラな子どものように上がった口角。役者ではない素の表情で、琴音が凛子とシャンディを見比べていた。


「ど、どちら様……です、か……?」

「普段のシャン姉とは真逆だね? 今日の設定ブックはスラスラ話せない臆病な女ってトコ?」


 おずおずと、リドル・スミスは瀬田麻里亜――凛子の陰に隠れる。もう九割がたネタは上がっているというのに、シャンディは芝居を辞めようとしない。

 となれば凛子も設定を続行しなければならなくなる。


「ひっ……人違いじゃない? 私の名前は瀬田麻里亜で、こっちはIQ160の天才でベンチャー社長で人見知りで吃音癖のある天才のリドル・スミスで……」

「へえ~?」


 二人の女優に挟まれて素人の凛子が芝居などできるはずがない。天才と二度も言ってしまった。完全に挙動不審者だ。

 ニタニタと不気味な笑みを見せながら、琴音が尋ねてくる。


「ふたりは恋人?」

「そ、そうよ! 何か文句でもあるの!?」

「じゃ、私の前でキスしてくんない? ふたり仲良く」

「は、はあ!? そんなの無理に決まってるでしょう!?」

「あーね。じゃあ日比谷の人に話しちゃおっかな。なんか怪しい人間が紛れ込んでるよって」


 琴音がこちらを試している。というより分かりきった上で弄んでいる。

 シャンディとキスなど死んでもしたくない。むしろキスするくらいならマーベリックの屋上から飛び降りる覚悟すら決まるほどだ。ただ、拒否して琴音に正体をバラされてしまうと、計画そのものが破綻する。

 凛子は傍らに隠れているリドル・スミスに意識を遣った。


 ――これ以上は無理だからどうにかしてよ!?


「これは遊戯ゲームってヤツだよ、お二人さん。キスできたら見逃してあげる。できなきゃ……どうしよっかな。どうすると思う? リドル・スミスさん?」

「はあ……」


 凛子の背後から、失意のため息が漏れ聞こえた。猫背のリドル・スミスの背筋がスッと伸びて、本来のシャルロット・ガブリエルの口調を取り戻す。


「……あたしの負けです。凛子さんみたいな女と口づけしたらあたしの綺麗な心が穢れてしまいます」

「何よその言いぐさ!? 私の方が無理なんだけど!」

「あたしはその10倍イヤです!」

「どこで張り合ってるの!?」

「あっはは……! 最高の茶番見せてもらったよ! 傑作、ウケる……!」


 「くくく」と噛み殺したように笑う琴音に、凛子は詰め寄ることしかできなかった。秘密を明るみに出される訳にはいかない。


「お願い、このことは日比谷には黙ってて! あと美琴さんにも!」

「どうしよっかな~?」

「足下見ないでよ! ファン辞めるよ!?」

「辞めらんないでしょーよ。私のドレス姿に見とれてたじゃん?」

「綺麗だったんだからしょうがないじゃない!?」


 何を言ってるんだろう、凛子は気が動転して混乱していた。そんな凛子の様子を明らかに愉しんでいる琴音に文句の一つでも言いたくなるが、舌がもつれてうまく言葉が出てこない。

 そんな凛子の恥態をひとしきり堪能したところで、琴音は平謝りして笑う。


「ごめんごめん。私も姉ちゃんの味方だよ。日比谷の柳瀬さんに来てくれって頼まれてさ。だからふたりのことはナイショ」

「だったら最初からそう言ってよ……」

「だっておもしろコスプレしてたから。イジってあげなきゃ可哀想でしょ」

「早苗さんには会えました?」

「ん。姉ちゃんにも会ったよ。日比谷の秘書課の連中と、四年ぶりに久瀬さんにも。あとはなんか知らないオッサン」


 凛子のにらんだ通りだった。琴音と久瀬文香は、四年前に凛子が観に行った舞台で共演している。琴音はその後も舞台に立ち続けてスターダムを駆け上がっているが、文香は舞台を降りてホテルマンになった。

 ただ、もうひとり気になる人物が居る。凛子の質問に先んじて、シャンディが声を上げた。


「その男性のお名前は分かります?」

「えーと、なんつったっけな……。ムサコみたいな感じの……武蔵小金井、じゃなくて。武蔵――」

「小杉?」

「そうそれ、小杉! 姉ちゃんと柳瀬さんが深刻そうな顔してたけど誰? 秘書課の仲間?」


 預かり知らない人物の登場に、凛子はシャンディの顔色を窺った。敢えて血色悪いメイクをしている青ざめた彼女の表情からは、やはりなんの感情も窺えない。それでもわずかに目を見開いたところからして、よくない人物であることは想像がつく。


「……少々計画に修正が必要かもしれませんね。敵が増えてしまいましたから」

「ええ……どれだけ敵を作ってるの、美琴さん……」


 凛子はどうにか状況を整理しようとする。

 美琴の敵として考えられるのは、まずは秘書課の四名。美琴と日比谷の協力者である柳瀬早苗を陥れようとしている悪い女達。

 次に赤澤来瞳。シャンディから聞いたことが真実なら、美琴ばかりか琴音まで陥れようとした黒須姉妹の敵で、凛子にとっても不倶戴天の敵。

 そして、謎の男・小杉。


「どうすんのシャン姉? 直接乗り込んで全員ぶっ倒すん?」

「あたしはか弱い乙女ですよ。荒事なんて柄じゃありません」

「じゃ、姉ちゃん達任せってこと? 無理でしょあいつポンコツだし」

「ええ。ですから方策を考えているんです」


 シャンディと琴音のやりとりが、凛子には遙か遠くの出来事に感じられた。

 疎外感だ。

 守ろうとしているはずの美琴は、もう凛子の腕の中にはない。二年間、明治文具という場所で見守り続けた最愛の人は自身の手を離れ、別の世界へ羽ばたこうとしている。

 それがひどく寂しくて、胸が痛い。


「……もう、必要ないのかな」


 ぽつり、とそんな言葉が独りでに漏れた。喧々囂々と議論を交わしていたシャンディと琴音の言葉がぴたりと止まる。

 口を開いたのは――


「……シャン姉。凛子ちゃん借りていい? 手伝って貰いたいことがあってさ」

「え、ちょっと!?」


 ――琴音だ。凛子の右手を掴んで、指を絡めてくる。恋人繋ぎ。


「ふふ。ご返却いただかなくて結構ですよ」

「はあ!? 何なのそれ!?」

「ただし、凛子さんにはまだやっていただくことがあります、用が済んだら解放してあげてくださいな」

「あいよー」

「貴女ひと使い荒すぎるから!」


 推しに恋人繋ぎされている凛子は、正常な判断力を失う寸前だ。認知拒否勢ゆえの葛藤でどうにか琴音の手を振りほどこうとするも、その手は強く握られている。

 ちらりと見た琴音の顔はいっさい笑ってはいなかった。タチの悪い冗談ではない顔。一度りんちゃんとして体を重ねた時と同じ、綺麗に整った女優のそれだ。


「凛子さん、あとで文香ちゃんに会ってください。そして《ナチュラル・スピン・ターン》、《リバース・ターン》、《ホイスク》、《シャッセ・フロム・PP》ステップをひとつでも多く教わってください。あたしに頼まれたと言えば応じてくれるはずです」

「何それ呪文!?」

「琴音さんは今の台詞、覚えました?」

「は。女優ナメんなって。んじゃ行こっか凛子ちゃん」

「ちょ、っと待って!? なに、なんなの!?」

「だいじょーぶ、先っちょだけだから!」

「それ絶対大丈夫じゃないヤツで! 痛い痛い痛いってば!?」


 推しに力いっぱい手を引かれては思い切った抵抗をすることもできず、凛子は琴音の控室となっている客室へ連れ込まれていった。

 無人になった客室廊下で、シャンディはスマホの電源を入れる。大量の通知を残していった女性の名を一瞥して、再び電源を落とした。


「……ごめんなさいね、美琴さん。そうそう信じられるほど、あたしっていい女じゃないですから。困ったものです」


 「ふふ」と小さく微笑んで、シャンディは再び背を丸めてリドル・スミスに戻る。臆病で人見知りなはずの表情は、恐れ知らずの少女のようで。まるで誰かに遊戯ゲームを仕掛ける時のように、イタズラに微笑んでいた。


 *


「用ってなんなの……」

「ごめんごめん、今準備すっからちょっと待っててよ」


 マーベリック客室、琴音用の控室。

 専属のメイキャップアーティストだろうか、どこか女性的に体をくねらせる小綺麗な男性が、琴音の髪とメイクを仕上げている。

 近づいて、遠のいて。何度も琴音の姿を見つめる彼の顔は真剣そのものだ。


「んー? もうちょっとグリッター入れてもいいけど。でも会場の照明がどれくらい強いか分かんないのよねぇ。ゴメンねアタシのリサーチ不足で」

「いいよいいよ。無理言って来てもらったんだし」


 余程、彼の腕を信頼しているのだろう。琴音はすべての判断を委ねていた。

 実際、文句たらたらで控室に入ったのに、凛子は琴音の変化に見とれてしまったのだ。化粧ひとつで何をと思うかもしれないが、プロのメイクはただそれだけで美しさを何倍にも引き立たせる。


「それじゃ、立ってみせて?」

「ん」


 勢いづいて椅子から立ち上がり、琴音は凛子を向いて振り返る。その周りを人工衛星のようにくるくるとメイキャップアーティストが周回し、ドレスを含めた最終確認の後、「うん」と頷いて太鼓判を押した。


「これで完成ね! いやー楽しかったわ、貴女って顔だけはいいもの!」

「顔以外も褒めて欲しいモンだけどねー」


 へらへらと素の琴音そのままの調子で笑っているが、彼女の姿は凛子が憧れている女優・黒須琴音のものだった。先ほどまで申し訳程度のメイクしかしていなかった彼女の顔が、赤と黒のツートンカラーのドレスと調和して華やいでいる。


「お待たせ、凛子ちゃん。紹介遅れたけど、この人は専属メイクのKOZOさん。チーム黒須琴音の一点」

「んもう、黒じゃなくてよ。がさつで男ッ気ないアンタ達と一緒にしないでくれる?」

「つーわけだから安心して」

「なんとなく……事情は分かったけど……」


 あまり好奇の目で見てはいけないと思いつつも、凛子はKOZOから目を離せなかった。男性NGである凛子と性別が入れ替わっているだけで、彼もおそらく似たような存在なのだろう。


「ああ! 琴音は例のね? ならアタシはもう帰るわ、これから汐留で別の女の顔面仕上げなきゃだから!」

「あんがとねー」


 言い置いて、KOZOはそそくさと退散した。彼が使っていたのだろう、《フランキンセンス》の残り香が辺りに充満している。


「で。どうよ、黒須琴音は?」

「あ、いや……それは…………」


 美を引き立たせて去っていったKOZOの事などすっかり忘れて、凛子は琴音の姿に魅入ってしまう。

 あまりにもまぶしい。インスタにもアップされない、テレビや劇場でも滅多にお目にかかれないレアな琴音の姿だ。


「……写真撮っていい?」

「最初に言うことがそれ? やっぱ面白いなー、その感情」

「撮ってもいい!?」

「はいはい。綺麗に撮ってよ」


 すっ、と琴音から表情が消える。物憂げにどこかを見つめる、消えてしまうような透明感のある立ち姿。カメラの前で見せるその姿はあまりにも綺麗で、凛子はスマホのシャッターをこれでもかと切りまくる。

 連写の音とフラッシュが琴音を包んでいた。


「あっはは。がっつき過ぎでしょーよ」

「笑わないで! さっきのまま! 目線は遠くに!」

「カメラマンかよ。プロの琴音オタクは違うなー」


 琴音は苦笑して、注文通りに表情を作る。凜としたものになった途端、凛子は再びシャッターを切りまくった。カメラロールに大量の琴音の写真が蓄積していく。

 凛子はもはや一心不乱だ。琴音の美を余すところなく切り取ろうとスマホ片手に縦横無尽に駆け回る。《容量が不足しています》というアラートが出てようやく我に返ると、凛子はカメラロールを確認した。

 頬が思い切り緩む。満面の笑みだ。


「ありがとう、家宝にする! じゃ!」

「ちょい待てやカメラ小僧。まだ用が済んでないじゃろがい」


 去ろうとしたが、ダメだった。むんずと肩を掴まれて、琴音に回り込まれてしまう。近くに見た琴音の顔があまりに綺麗で、凛子は言葉を失った。


「な、に……」

「あんさ、正直頼みづらいんだけど……聞いてくれる?」


 琴音は珍しく俯きがちに言葉を詰まらせる。ドラマで見た、恋に悩む女性そのものと言った姿が凛子の脳裏を瞬間的によぎった。


「……好きとか言ったら拒否するから」

「言うならもっとマシな状況で言うっての。そうじゃなくて」


 言い置いて、琴音が凛子の手を握ってきた。そしてお祈りでもするように手を合わせて、互いの胸の前へ持っていく。喩えるならば、祈りを捧げる聖母の立像を、二つ向かい合わせに配置するようなもの。

 先ほどの話に登場した、だろうか。


「……私ね、で居るの疲れんだよ」

「え……」


 予想とは違った方向からの告白に、凛子は言葉を呑み込んだ。


「や、別に女優辞めたいとかじゃないよ。天職だと思ってるし、私を見て悦んでくれる人が居るってのはすごい嬉しい。だけど凛子ちゃんは知ってるじゃん? 素の私と、黒須琴音のギャップ」

「それは……うん……」

「だからさ、大変なんだよね。を出さないようにすんの。心の底に私を沈めて、みんなの琴音にならなきゃいけないワケ。そのための儀式を、凛子ちゃんに手伝ってもらいたい」

「どう、いうこと……?」

「アスリートのルーティーンみたいなモンだよ。普段はジャーマネがやってくれるんだけど今日は居ないし。ま、このルーティーン自体、最初は姉ちゃんがやってくれてたんだけど」


 恥ずかしそうに「へへへ」と笑う。お祈りの姿勢で握り合った琴音の手が震えていた。緊張して、怯えている。

 こんな琴音の姿を、凛子は知らなかった。カメラの前、舞台の上、SNS上ではいつも神々しいまでの美しさを放っている彼女でも、ひとたびそこを外れると凛子と同じ、生きたひとりの人間だ。怯えもするし、恐れもする。


「ごめんね、弱くて。今度こそ幻滅した?」


 凛子は迷う。

 確かに、今の琴音の姿は一番知りたくないものだ。神にも近く、なかば神格化さえしていた琴音が、自信と同じ人間だと知ってしまったから。

 だけど同時に、怖がり恐れながらも表舞台に立とうとする琴音の真相を思えば思うほどに、凛子の認識は書き換えられていく。


 デビュー作のVシネマの撮影の時も、こうだったのかもしれない。

 久瀬文香の主演舞台に脇役で出演した時も、こうだったのかもしれない。

 深夜ドラマで大立ち回りを繰り広げている時も、こうだったのかもしれない。


 凛子がこれまで見てきたが、上書きされていく。

 日本中のファンに夢を見せる、強く美しい女優。そんな彼女がふと見せた、悩みを抱えながらも、それに打ち克とうと必死で戦っているもうひとつの側面。

 凛子はようやく口を開くことができた。


「……そんなの、守ってあげるしかないじゃない」

「なら、凛子ちゃんには名誉ファン第二号の称号を授けよう」

「……一号は?」

「分かりきったこと聞くなよー」


 少し笑ってしまう。名誉ファン第一号が誰かなんて考えるまでもない。


「……いいよ、ルーティーン付き合ってあげる。何すればいい?」

「んじゃ、復唱して。私ってトコを貴女に変えてくれるだけでいいから。向き合って、手握って。目を見て」


 琴音と視線を交わす。まつげが長い。彼女に瞳の中に凛子が映っている。琴音も同じように、瞳に映った自分自身を見ているのかもしれない。

 琴音はゆっくりと息を吸い込む。そこから数秒おいて、儀式が始まった。


「私は女優、黒須琴音」

「貴女は女優、黒須琴音」

「誰も私を見ない。誰も私を意識しない。誰も私を愛さない」


 その言葉が凛子の胸を刺す。


「……誰も貴女を見ない。誰も貴女を意識しない。誰も貴女を愛さない」

「わたしは、皆の望む通りに振る舞う。皆にひとときの夢を見せる」

「貴女は、皆の望む通りに振る舞う。皆にひとときの夢を見せる」

「わたしは誰にも甘えない。わたしはひとりで生きられる。わたしのチカラだけで羽ばたく」

「貴女は誰にも甘えない。貴女はひとりで生きられる。貴女のチカラだけで羽ばたく」

「さようなら、私。よろしくね、黒須琴音」

「……さようなら、貴女。よろしくね、黒須……琴音……」


 溢れそうになるものを必死で押し留めて、凛子は熱ばったため息を吐く。

 握り合った手を離し、琴音は静かに一歩下がって振り向いた。


「最後に、の背を叩いて」

「う、ん……」


 言われるままに、凛子は赤と黒、バックシャン・ドレスの背を手のひらで押した。

 黒須琴音は振り返る。


「ありがとう、凛子さん」


 儀式は終わった。

 凛子の眼前に、琴音としばしの別れを告げた女優が立っている。


「わたしはこれで大丈夫。貴女は久瀬さんのところへ向かって」

「で、も……私は……」


 知ってしまった琴音の秘密が、凛子の良心を責め立てていた。

 自分自身に嘘をつく琴音は、どれほどツラいことだろう。自身に別れを告げてまで、黒須琴音のイメージを守り通すことがどれほど大変なことだろう。


 ――誰も私を愛さない。


 儀式の祈りの中に現れたその言葉が、凛子の意識を揺らがせる。

 琴音が自らを犠牲にして見せてくれていた夢に、凛子はただ酔っていただけなのだから。


「これ以上と話していると、を愛してしまいますよ?」

「そ、そんなワケないから!」

「凛子さんはファンですからね」


 言葉遣いも口調も抑揚もまるで別人に切り替わっている。よく似た姉の美琴とは遠く離れた美。儚げで、それでいて意思の強い切れ長の瞳。まるで感じられなかった妖艶さを放つ表情と立ち姿。

 黒須琴音。世間に夢を見せる女優の姿だ。

 ただし、凛子がただ憧れるだけだった強い黒須琴音の姿はもうそこにはない。何故なら凛子は本当は弱い、琴音の姿を知ってしまったのだから。


「……気をつけてね」

「うん。行ってらっしゃい」


 短い言葉だけ交わして、凛子は客室を退散した。廊下に出て扉を閉めた途端、全身の力が不意に抜けて、壁にもたれたまま座り込んでしまった。


「ズルいよ、もう……」


 恐ろしいくらいに、顔が熱い。風邪でも引いたのだと思い込んで、凛子は指示通り久瀬文香の元へフラフラした足取りで歩んでいった。


 *


 秘書課との打ち合わせは簡単なものだ。事前のプログラムからの変更点――臨時で招待客を二人増やしたこと、開会の挨拶を黒須琴音に行わせること――を確認する程度で、その後はただの雑談と称したマウント合戦と嘲笑があったのみだ。

 美琴の隣でバニーガール姿を晒していた早苗は、ただひたすらに無言を貫いていた。「口を開けば罵詈雑言が飛び出してしまう」とふたりきりの時に語った通り、ただひたすら秘書課の嘲笑を相変わらずの仏頂面で受け流す。

 早苗は強い。

 それでも、彼女がたびたび薬指の指輪に触れる仕草を見逃すほど、美琴は鈍感ではなかった。


「……私は董子といったん合流します。この姿を見て、彼女が怒り狂わないかだけが心配ですが」

「何かあれば、私が証人になりますよ」

「すみません、助かります」


 ホールはすでに招待客が入場を始めていた。着飾った紳士淑女の輪の中に、ひとりだけ異質な姿の早苗が消えていく。

 この仕事――秘書課の統合に賭ける早苗の覚悟は確かなものだ。秘書課との決着はダンスパーティーの最後、赤澤来瞳とのエキシビションに掛かっている。


「私が上手く踊らなきゃいけないのか……」


 心細かった。わざわざマナーモードも解除したのに、スマホが着信を知らせることはない。あれから何度呼びかけても、本当に繋がりたい彼女からの返事はない。既読すらついていない。


 立ち尽くしているのも嫌になって、美琴は人混みの輪を外れて、壁際に並んだ椅子に腰を落ち着けた。慣れないタキシードの尻尾、燕尾服という名の由来でもある背部の布がフロアに垂れ下がる。

 座ったまま、ホールを眺めた。来場する招待客達は、当然ながら秘書課の陰謀など知るよしもないのんきなものだ。挨拶を交わして語らいながら、社交の場らしい表面上の付き合いを続けている。


「あ、の……。隣、いい、ですか…………?」

「え?」


 突如現れた気配に驚いた。人混みに同化していて気づけなかったのだ。それくらい彼女の存在は薄くて平凡。黒髪で赤い瞳、肌は不健康そのものといった青白さ。そこへ目元を覆うマスカレードマスクがどこか不気味な印象を漂わせている。

 あっけにとられた美琴は、席を譲るべく立ち上がった。


「あ、ああ。どうぞ。私は持ち場に戻りますので」

「……ホホ、ホスト、の、方、ですか? 日比谷の……」

「ええ、まあ一応は……」


 吃音がひどくて聞き取りづらい。周囲の雑音から意識を遠のけて、美琴は黒髪の仮面女性の声に聞き耳を立てる。


「……人混み、苦手で……。だけ、ど……ひとり、ぼっち、も…………苦手、で……」


 彼女の言わんとすることは分かった。その人となりからして、おそらくは対人恐怖症。だが、ひとりになって浮いてしまうのも嫌なのだろう。他に椅子はたくさん余っているのに、わざわざ美琴の隣に座ろうとしているのがその証左だ。

 とは言え、誰も身につけていない仮面舞踏会用のマスクなんてしているのだから、浮くなという方が無理な話である気もする。自身の顔を見られたくない、恥ずかしがり屋なのかもしれない。


「では、ご一緒しましょうか。実は私も、ひとりで少々心細かったものですから」

「……あ、ありがとう、ございます…………」


 彼女の隣に腰を落ち着け、並んで徐々に増えていく招待客を眺める。

 美琴達の眼前を招待客が横切る。その時ふと、オレンジの香りが鼻腔をくすぐった。思わず視線で追うも、姿は見当たらない。

 そもそも彼女とはケンカ別れ中だ。こんな場所に居るはずがない。バッテリーがなくなるくらいにスマホの画面を確認しているのに、なんの音沙汰もない。


「……あ、の。お、お名前を……聞いて、も…………?」

「すみません、ご紹介がまだでしたね。黒須美琴と申します。そちらは?」

「…………り、リドル・スミス……」


 日本語で話しかけられているので気がつかなかった。言われてみれば確かに、リドル・スミスはどこか欧米風の顔立ちをしている。

 一瞬、強烈な既視感が美琴を襲った。

 ただ、既視感の主はこんな人間ではない。黒髪でなければ赤い瞳でもないし、ほとんど立て板に水状態でスラスラと嘘か誠か分からないことを並べ立てる女性だ。


「スミスさん、でいいですか?」

「……う、はい…………。ミズ・黒須…………」


 スミス氏の声は、場内にあふれた荘厳なファンファーレにかき消された。招待客達のどよめきは水を打ったように静まりかえり、ホール内の照明が絞られる。

 薄明かりの会場にスポットライトが奔る。日比谷の社章と《第四十八回定例懇親会》と書かれたプレートが煌々と照らされる。スピーカー越しに、久瀬文香のものと思われる落ち着いたアルト・ボイスが聞こえてきた。


『ご来場の皆様にお知らせします。大変長らくお待たせいたしました、これより第四十八回、日比谷商事主催定例懇親会の開催を、本日のゲスト、俳優の黒須琴音様よりご挨拶いただきます』


 場内を割れんばかりの拍手が満たした。舞台袖から、琴音がスポットライトの尾を引きながら、司会者用のものと思われる卓まで歩いていく。

 その姿は堂々としたものだ。こなしてきた場数が違う。琴音の弱いところを知っている美琴ですらも思わず目を奪われてしまうほどの立ち振る舞いだ。


「やっぱ腐っても女優だな……」

「……そう、だね…………」


 なんとなく苦笑してしまった。スミス氏がこぼした言葉は、美琴の耳には届かなかった。


「ご紹介にあずかりました、黒須琴音です。本日はご列席いただきまして誠にありがとうございます。日比谷商事社長・日比谷恵美に代わりまして、ご縁あって登壇したわたくしから開会の宣言をさせていただきます。ただいまより、第四十八回、日比谷商事主催定例懇親会の開催を宣言いたします」


 拍手。そして場内は明るさを取り戻す。荘厳なクラシックの音色がはじけ、歓談の輪がそこかしこで咲き乱れる。


 ――いよいよ、戦いの火蓋が切って落とされた。

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