#48 : Red Eye / ep.2

 六本木はずれ。本心を仮面で覆い隠したバーテンダーが微笑むガールズバー《antiqua》。


「……美琴さんに真実を明かして、同情されたくなかったんでしょ」


 凛子が突きつけた真相に、シャンディは言葉を詰まらせ返答する。

 涙が止まらない。そんな彼女を見かねて、凛子はハンカチを差し出した。涙を拭うと、シャンディは「はあ」と熱っぽいため息をつく。満月のような琥珀色の瞳は、泣き腫らして真っ赤に充血していた。


「偽名だと思ってたのに、まさか本名だったなんてね……」

「……ええ」


 以前シャンディに示された免許証には、彼女が頑なに守り続けていた謎の一端が嘘偽りなく記されていた。


「シャルロット・ガブリエル。年齢24歳。11月24日生まれ。どこがオトナなの? 美琴さんより年下じゃない」

「年下だったら、いけませんか?」


 尋ねられても答えに窮する。美琴の好みのタイプがどんな女性かは凛子にも分からない。唯一確かに言えるのは、美琴が好きになった女性は眼前の彼女であるということだけ。


「知らないよ、そんなこと」

「……貴女の言葉は逆に信用できます。あたしを嫌う人の言葉は、裏を読みやすいですから」

「ムカつく……」


 涙目になりながらも、シャンディは微笑んでいた。

 実際、凛子は答えをはぐらかしていた。シャンディの実年齢がどうだろうと関係ない。美琴が愛したのはシャンディであるという事実だけは揺るがないからだ。それを告げることが負けを認めたようで悔しかっただけ。


「でも、貴女の正体の調べはついてる」

「…………」


 何も答えないシャンディを追い詰めるべく、凛子はスマホのカメラロールを指でたぐった。

 写真は凛子が推し・黒須琴音を追いかけて、初めて観に行った舞台のこと。


「四年前、琴音ファンの友達に誘われて舞台を観たの。その時は私、Vシネでデビューしたばかりで端役も端役だった琴音の初舞台に目を奪われてたんだけど」


 凛子はシャンディに写真を見せる。

 劇場で友人と記念写真したものだ。背後の演劇ポスターには、凛子にも見覚えのある女性の姿がプリントされている。その正体は――


「だからこの舞台のことはよく覚えてる。主演女優は芸名だったけど、今の名前は分かる。久瀬文香。マーベリックで私達の間に割り込んできたホテルマンだよね」


 シャンディは赤い瞳のまま、クイズ番組の司会者が間違い解答を笑うかのように「残念」と告げた。


「証拠不十分ですね。それだけで文香ちゃんを元女優だなんて決めつけられません。他人のそら似では?」

「そう思って調べたよ。この舞台の主催企業はホテル・マーベリック。マーベリックはホテルだけじゃなくて、劇団も経営してる」


 凛子は過去へ遡っていたカメラロールを、今度は少しだけ未来に飛ばす。


「不思議だと思ったの、マーベリックのホテルマンは妙に美形揃いだから。それに久瀬文香が偽名だって言ったのも気になった。ホテルマンみたいな信用商売が源氏名を使うのはおかしいよ」

「それで?」

「久瀬文香の在籍してた劇団でちょっとした事件があったの。貴女は知らないフリをするだろうけど」


 四年前の衝撃的な出会いで琴音から目を離せなくなった凛子は、どうにか琴音の名前を探ろうとマーベリックの経営する劇団を調べまくっていた。その折に、週刊誌で見た悲しい事件のことを知ったのだ。

 

 《悲劇のヒロイン!

  ――公演初日に謎の死を遂げた女優・芥川アリスの真相》


 凛子はスマホで撮影した週刊誌の見出し記事をシャンディに突きつける。

 黒髪、赤黒い瞳で猫背気味の白人女優。芥川あくたがわアリス。

 当時のマスコミは、悲劇の女優・芥川アリスをセンセーショナルに報じた。が、人の噂も七十五日だ。おまけに新陳代謝の激しい芸能の世界にあっては、四年も前の彼女の事件などとうの昔に忘れ去られている。


「この女優に心当たりはない? 芸名は《芥川アリス》。11月24日生まれ。年齢は生きていれば今年で24歳」

「あら、偶然の一致ですね? ですがあたしはご覧の通りの金髪で、瞳は琥珀色。背筋もピンと伸びています。胸も小さいですし」

「黒髪はウィッグ。瞳はカラコン。当時は猫背だった。胸元は詰め物してるだけ。これだけ違えば誰も分かんないよ」

「ふふ。まるで芥川アリスの正体があたしだとでも言いたそう」

「認めてよ」

「いーえ。だって彼女は死んだんでしょう? あ、もしかしてあたしはゾンビだったりして?」

「美琴さんといい貴女といい、どうして肝心なことを話してくれないのかな……」


 猛烈にイライラする。腹立たしい。嘘をつくなと約束させたはずなのに、どうしても嘘をつかないと生きていられない生き物。それがこの女なのか。


「貴女も久瀬文香も、昔は同じ劇団にいて、同じホテルで働いてた。ホテル・マーベリックは舞台を降りた女優達の再就職先。違う?」

「ふふ」


 シャンディは微笑んでいた。それ以上言うな、という無言の圧力さえ秘めた笑みにはさすがの凛子も怯む。そもそも、凛子の手元にはこれ以上の手がかりはない。おそらく正しいと思われる憶測でも、シャンディが首を縦に振らない限りは確定しない。


 第一、悲劇のヒロイン・芥川アリスの真相を掘り下げる気は凛子にはない。

 もしシャンディの正体が芥川アリスなら、彼女は死を装っていることになる。《悲劇のヒロイン》のゴシップ記事は、真っ赤なフェイクニュースということだ。

 となると、謎だらけのシャンディが抱えた、新たな謎が浮き彫りになる。


 なぜ芥川アリス――シャルロット・ガブリエルは、死を装ってまで舞台を降りなければならなかったのか。

 芥川アリスの死を伝えるゴシップ記事は本当に誤報だったのか。

 それとも、わざと誤報を流して芥川アリスの死を装う必要があったのか。


「もういいよ、それで……」


 凛子は詮索をやめた。シャンディの謎の核心に触れ、彼女を傷つけることを恐れた訳では断じてない。

 詳しく過去を詮索し、フェイクニュースの裏に隠れた真相を知ってしまえば、死を装ってまで舞台を降りた悲劇のヒロインに同情してしまう気がした。

 恋敵である彼女のことを気がした。

 だから敢えて真実から目を背け、シャンディに告げる。


「言った通り過去は詮索しない。貴女なんかに同情したくない。貴女が伝えるべき相手は私じゃなくて美琴さん」

「ええ。時が来たら話します」


 それきり会話はなくなった。

 店内の沈黙をクラシックが埋める。曲目はハチャトゥリアンの《仮面舞踏会》。重厚でいて豪華絢爛、どこかおどろおどろしさすら感じさせるワルツ。

 微笑みを貼り付けたまま、何を語るでもなく佇んでいるシャンディを眺める。顔には涙の跡。化粧も崩れているのにさも何でもない風を装っているのがどうにも滑稽に映った。


「頑固だよね。なんでもないってフリしちゃって」

「なんのことだか分かりかねます」


 はぐらかして会話の方向をねじ曲げるやり口。その手には乗らないと凛子は無視して続けた。

 話題はシャンディの過去から、美琴と破局した理由へ向かう。


「貴女でもミスすることあるんだって思っただけだよ。ずっと手のひらの上でうまく転がしてきたのにね」

「そうですねえ……」


 シャンディは凛子から視線を逸らし、壁にもたれた。斜め上を見上げる横顔を一筋の涙が伝い落ちている。


「いい気味って感じ。ざまあみろ」

「負け犬の遠吠えなんて聞こえませーん」

「貴女も負け犬でしょ」

「ネコ派なので、負け猫にしてくれません?」

「なら泥棒猫。私から美琴さんを盗んだから」

「じゃあ凛子さんは発情期の雌犬です。匂いで気を惹けると思ってる、愚かで浅はかで本能のままに盛る淫らな駄犬」

「あ!?」


 ブチ殺してやろうかと思うほどにムカつく。が、ここで激高すればそれこそ思う壺だ。どうにか冷静さを保ち、凛子は今宵アンティッカを訪れた理由。本題を切り出した。


「美琴さん、貴女が信じてくれないって言ってた」

「そうですか」

「どうして信じてあげないの? 私から見ても美琴さんは――」


 その先を話すのが辛かった。それでも突きつけて話を聞き出さなければ、美琴の恋心が浮かばれない。


「――美琴さんは、貴女を本気で愛してるのに」


 シャンディは目を見開く。ようやく止まっていた涙が、再び瞳に溢れている。涙は小川のように、気丈なバーテンダーを装うためのメイクを貫いて流れていく。


「……貴女がうらやましいです」


 シャンディはやっとのことで絞り出した様子で、力なく微笑んだ。


「何がうらやましい、だよ。そんなこと1ミリも思ってないくせに」

「……思ってますよ。どうしてそう簡単に、他人を信用できるのだろうって。心が読める訳でもないのに」

「心なんて読む必要ないでしょう?」

「それだといつか、裏切られてしまう」

「裏切られたって別にいいじゃない」


 ここまでのやりとりで凛子は、シャンディが美琴に対して何を行ったのかおぼろげではあるが察しがついた。鋭敏な五感の先にある、第六感とでも呼べるもの。《アロマティック》で様々な恋愛相談を受けてきたから分かること。

 それは女の勘、そして女としての経験値の差。


「貴女は美琴さんの愛を試したんだね。裏切られるのが怖くて、美琴さんがホントに自分を愛してくれてるのか確認した。ひどい手を使って」


 シャンディは押し黙る。

 図星を突けた。そう確信して、凛子は続ける。


「試された美琴さんの気持ち考えなよ。貴女が同じことされたらどう思うの」

「……美琴さんは、あたしみたいなイヤな女じゃありません」

「それ、美琴さんを信じてるってことだよ」

「あたしが美琴さんを信じることと、美琴さんがあたしを信じることは違います」

「同じだから。愛ってそういうものなんじゃないの? 確証なんてなくたって相手を信じること。たとえ裏切られて自分が傷ついたって構わない、みたいな」

「愛なんて不確かなものの存在を盲信しろ、と?」

「少なくとも美琴さんは貴女のこと盲信してたでしょ……」


 恋敵を相手に、なぜ恋愛観を語っているんだろう。アンティッカを訊ねたあたりからして調子が狂いっぱなしだ。どうにも気恥ずかしくて気まずくて、凛子は壁にもたれたシャンディから視線を逸らした。

 当然、そんなわずかな機微をシャンディが見落とすはずもない。


「……ふふ、驚きました。凛子さんは本気で、不確かなものを信じていらっしゃるのですね?」

「はいはいそうですねー。どうせ私が美琴さんを信じたって、私の愛は届きませんよー」

「いーえ。皮肉ではなく、素直に感心してしまっただけ。先ほども言ったとおり、盲目的に愛の存在を信じられる貴女がうらやましいんです。単純で」

「一言余計だってよく言われない?」


 「ふふ」と微笑んで、シャンディは頼んでもいないのにカクテルを作り始めた。

 先ほど凛子が干したビール《水曜日のネコ》と、ジンジャーエール。冷蔵庫から取り出したばかりの冷えて曇ったグラスが二脚、カウンターの前に饗される。


「しょうがないからサービスしてあげます」

「なんなの、その態度。お客様は神様だよね?」

「アンティッカの神様はあたしですから」


 重苦しいため息をついて、凛子は座ったまま壁に身を寄せた。いつも美琴が座っている、壁際の特等席。美琴もこんな風に、シャンディに翻弄されて壁にもたれていたのかもしれない。

 サービスのカクテル――凛子が知る限り《シャンディ・ガフ》が作られる様子を横目に見ていると、シャンディに名を呼ばれた。


「ねえ、凛子さん?」

「……なに」

「先に謝っておきます、ごめんなさい」


 コースターの上に、《シャンディ・ガフ》が饗される。シャンディの瞳の色にも似た淡い琥珀色。炭酸の泡がグラスの底からふつふつと湧き上がっている。


「……毒でも盛った?」

「言葉には盛っても、お酒には盛りませんよ」

「ホント貴女嫌い」

「ええ。実を言えばあたしも、今の今まで貴女のことが大っ嫌いでした」


 恋敵なんだから当然だろ、と凛子は思う。過去形なのが気に掛かったが。


「ですが貴女はあたしに会いに来た。美琴さんを心の底から愛しているから、大嫌いなアンティッカまで足を運んだ。美琴さんを信じる想いの強さでは……認めます。あたしの負け」

「美琴さんのこと諦めた?」

「いいえ」

「ならどうして負けを認めたの」

「同じ女を愛する者として、敬意を示そうと思っただけ」

「貴女の敬意なんていらない」

「ではカクテルだけでも。なんせ、あたしの懐を痛めつけるタダ酒です。格別だと思いますよ?」


 しぶしぶ《シャンディ・ガフ》を飲みながら、凛子は心の中で後悔した。

 という発言に込められた意図は、おそらく――


「あたしは美琴さんを愛します。貴女の入り込む余地がないくらい徹底的に」

「無理だよ。愛を信じられない貴女になんて」

「今宵、貴女と話して、少しだけ信じてみようと思ったんです。もちろん全幅の信頼とはいきませんけれど。あたしシャイなので」


 ――凛子の予感は的中した。


「だから、ごめんなさいね。凛子さんの愛は絶対に実りません。シャルロットが絶対に絶対に実らせません。ですが、あたしが言ったところで諦めるような貴女ではないでしょうから、ごめんなさい。徹底的に貴女を打ち負かしてさしあげます」


 充血していた瞳は、琥珀色の輝きを取り戻した。嘘偽りのない、真正面からの宣戦布告。不確かな愛を信じられなかったシャンディが、信じようとしている。美琴と向き合って、愛し合おうとしている。

 それは同時に、凛子が抱く愛への最後通牒。

 二人の悩める女に救いの手を差し伸べたことで、自身の愛が終わろうとしている。


「そう」

「ええ」

「……私、帰る。いくら?」

「今宵はサービス。新たな恋路へ旅立つ、凛子さんへの餞です」


 シャンディの宣言に何も言い返せなかった時点で、勝敗はもう決していた。だけど敗北をそのまま呑み込むことも躊躇われて、凛子は財布から千円だけ抜き出してカウンターに置く。


「自分の恋くらい、自分で幕を引くよ」

「それでこそあたしのライバルです」

「貴女に認められても全然嬉しくない」

「ふふ、ツンデレですか?」

「いい加減にしないと本気で殺すよ? 私いま、失うものないから」

「まあ、怖い」


 くすくす笑うシャンディに、凛子は呆れて肩を落とした。

 自身が争っていた恋敵は、どこまでも食えない女だ。一筋縄ではいかないほどに手強くて、愛を信じられない面倒臭い女で、それでいて同情を引きたくないという理由だけで、過去をひた隠しにしていたのだ。

 凛子は、はたと気づく。


「ああ、だから遊戯ゲームなんだ……」


 頑なに封じ込めている壮絶としか思えない過去を明らかにすれば、美琴は絶対にシャンディを深く愛するようになるだろう。他の追随を許さない、絶対的な武器になるだろう。


 ――《悲劇のヒロイン:シャルロット・ガブリエル》


 だが、シャンディは謎で過去を覆い隠した。つまびらかにして「可哀想な女だ」と思わせれば一瞬で気を惹けるにも関わらず。

 凛子の知る限り、美琴は優しくて他人に甘い。そんな彼女だからこそ、シャンディの秘めた壮絶な過去はまさしく伝家の宝刀だ。

 それを最後まで抜こうとしなかったのは。

 幾度となく美琴を揺さぶって愛を試そうとしたのは。


「貴女は、現在いまの貴女だけを見ていてほしかったんだね」

「ふふ。どうかしらね?」


 意味深に微笑む、回りくどく面倒くさい女を見て、凛子は悟る。

 この女になら。少なくとも他に35億もいる有象無象の女どもよりは、美琴を奪われてもいい。


「……今度こそ、じゃあね。もう二度と会わない」

「それは無理じゃないかしら」

「ここの常連になる気はないよ」

「少なくとも、あと一回は確実にご来店いただくことになりますよ」

「もうなんなのよ、もったいつけずに話して!」


 どこから取り出したものだろう。シャンディは黒髪のカツラを被ってみせる。泣き腫らして充血してはいても瞳は琥珀色のまま。だが、背中を丸めて猫背気味になったその姿は、四年前のわずかな一瞬世間を賑わせ、人々の記憶から忘れ去られた女優のもの。


「あたしとダンスパーティーに忍び込みませんか? 凛子さん」

「だんすぱーてぃー……?」


 シャンディはイタズラに微笑んでいた。

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